第七章 実りの秋 前編
九月の終わり。
朝の風が、ほんの少しだけ涼しくなった。
団地のベランダでは、夏の間たくさん実をつけたミニトマトが役目を終え、代わりにプランターでは小松菜やほうれん草の芽が顔を出し始めていた。
恵子は小さな芽を見つめながら、じょうろで優しく水をかける。
「おはよう。今年もよろしくね。」
すると玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
「恵子さーん!」
「はいはい。」
扉を開けると、ランドセルを背負った麦人が満面の笑みで立っていた。
「むーさん、おかえり。」
「ただいま!」
「今日は学校終わってすぐ来たん?」
「うん! 三連休だからね!」
麦人は靴を脱ぐのももどかしく、部屋へ飛び込んだ。
「じいちゃん!」
「おう。」
賢蔵は縁側で盆栽の手入れをしながら、静かに笑った。
「少し背が伸びたか。」
「分かる?」
「靴が小さく見える。」
「そこ?」
三人は声を上げて笑った。
◇
昼ご飯を食べ終えると、恵子は大きな布袋を持ってきた。
「むーさん、今日はお手伝いして。」
「何するの?」
「団地のみんなに配るんよ。」
袋の中には、ベランダで育てたゴーヤやピーマン、近所の畑でもらったサツマイモが入っていた。
「全部あげるの?」
「うん。」
「せっかく育てたのに?」
恵子は少し笑った。
「たくさん採れたら、おすそ分け。」
「でも減っちゃうよ?」
「減るけど、笑顔が増える。」
麦人は少し考え込んだ。
「笑顔は……減らない?」
「そう。分けても減らない。」
その言葉に、麦人はにっこり笑った。
「じゃあ、ぼくも配る!」
◇
二人は団地のあちこちを歩いた。
「こんにちは。」
「今年もたくさん採れたから、どうぞ。」
恵子が渡すたびに、
「ありがとう!」
「助かるわ。」
と笑顔が返ってくる。
麦人も少し照れながら袋を差し出した。
「どうぞ!」
「まぁ、むーさんからもらえるなんてうれしいねぇ。」
頭をなでられ、麦人は少しくすぐったそうに笑った。
◇
最後に訪ねたのは、一人暮らしの佐々木さんの部屋だった。
最近あまり外で見かけなくなったおばあさんである。
チャイムを鳴らすと、ゆっくり扉が開いた。
「あら、恵子さん。」
「こんにちは。」
「元気しよった?」
「まあ、ぼちぼちね。」
恵子はサツマイモを手渡した。
「今年も甘いよ。」
佐々木さんは目を細めて笑った。
「ありがとう。」
その笑顔を見た麦人は、小さな声で聞いた。
「恵子さん。」
「ん?」
「佐々木さん、ちょっと元気なかったね。」
「うん。」
「風邪?」
恵子は首を横に振る。
「たぶんね。」
「うん。」
「少し寂しかったんだと思う。」
麦人は首をかしげた。
「寂しいのって分かるの?」
恵子は歩きながら空を見上げた。
「表情かな。」
「でも笑ってたよ?」
「笑ってても寂しい日はあるよ。」
その言葉に、麦人は黙ってうなずいた。
◇
帰り道。
団地の広場に大きなイチョウの木が立っていた。
葉っぱが一枚、くるくると回りながら落ちてくる。
麦人はそれを両手で受け止めた。
「見て!」
黄金色の葉っぱが、手のひらで輝いている。
「きれい。」
恵子も笑顔になる。
「秋はね。」
「うん。」
「何かを終わらせる季節じゃなくて、頑張ったごほうびをくれる季節なんだよ。」
麦人はイチョウを大事そうにランドセルへしまった。
「じゃあ、この葉っぱもごほうび?」
「そうかもね。」
風が吹き抜ける。
イチョウの葉が何枚も空を舞い、団地の道を金色に染めていった。
麦人はその景色を見ながら思った。
秋も、春や夏と同じように、誰かに何かを届けに来る季節なのかもしれない。
そんなことを考えながら、二人はゆっくりと家路についた。
――第七章 実りの秋 前編・終――




