↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
めぐる季節は麦の道  作者: まーサンタ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/14

第六章 薫る初夏 後編

 翌朝。


 団地のベランダでは、朝露をまとったミニトマトが朝日に照らされ、赤い宝石のように輝いていた。


 キュウリの葉には、小さな水玉がいくつも並んでいる。


 恵子はじょうろを持ち、いつものように野菜へ声をかけた。


「おはよう。今日も元気じゃね。」


 麦人も眠そうな目をこすりながらベランダへ出てきた。


「おはよう、トマト。」


 恵子はくすっと笑う。


「昨日の続きじゃね。」


「うん。ちゃんとあいさつした。」


 その時、一羽のスズメが手すりにとまった。


 チュン、チュン。


 まるで二人の朝のあいさつに返事をしたようだった。


     ◇


 朝ご飯を食べ終えると、恵子は麦人に小さな袋を渡した。


「はい。」


「なに?」


「野菜の種。」


 袋には「枝豆」と書かれている。


「植えるの?」


「むーさん専用の畑。」


「ベランダなのに?」


「小さくても畑は畑。」


 恵子は植木鉢に土を入れ、麦人へ小さなスコップを渡した。


「指で穴を開けて。」


「これくらい?」


「もうちょっと浅く。」


 麦人は慎重に種を置き、やさしく土をかぶせた。


「これでいい?」


「いいよ。」


 最後に二人で水をかける。


 土からふわっと、雨上がりのような匂いが立ち上った。


「早く育たないかなぁ。」


 麦人がつぶやく。


 恵子は首を横に振った。


「急いだら、種がびっくりする。」


「種も?」


「みんな、自分の速さがある。」


     ◇


 午後になると、空が急に暗くなった。


 風が強く吹き始める。


「雨?」


 麦人が窓を見る。


 ポツン。


 ポツポツ。


 やがて大粒の雨が降り始めた。


「夕立じゃ。」


 恵子は急いでベランダの洗濯物を取り込む。


「むーさん、手伝って。」


「任せて!」


 二人で笑いながら洗濯物を抱え込み、ぎりぎり間に合った。


 窓の外では、雨粒がベランダの野菜を勢いよく打っている。


「トマト、大丈夫かな。」


 麦人が心配そうにつぶやく。


「大丈夫。」


 恵子は雨を眺めながら言った。


「雨も野菜にはごちそうなんよ。」


「こんなに降っても?」


「晴れだけじゃ育たん。」


 その言葉に、麦人は窓へ目を向けた。


「人も?」


「そう。」


 恵子は静かにうなずく。


「悲しい日も、悔しい日もあるけぇ、人は優しくなれる。」


 雨音だけが部屋に響いた。


     ◇


 夕立は一時間ほどで止んだ。


 西の空から夕日が差し込み、大きな虹が山の向こうへ架かった。


「恵子さん!」


 麦人は窓を開けた。


「虹!」


「大きいねぇ。」


 二人は急いで外へ出た。


 団地の広場には、子どもも大人も集まり、みんな空を見上げている。


「きれいやなぁ。」


「久しぶりに見た。」


 誰もが笑顔だった。


 虹は七色の橋となって、空いっぱいに伸びている。


「恵子さん。」


「ん?」


「虹って、なんで出るの?」


「雨とお日さまが仲直りしたしるし。」


「それ、本当?」


 麦人が笑う。


「科学では違うかもしれん。」


 恵子も笑った。


「でも、そう思うと虹がもっと好きにならん?」


 麦人はもう一度虹を見上げた。


「うん。」


 理屈では説明できても、心で感じることは別なのだと、少しだけ分かった気がした。


     ◇


 帰る時間が近づいた。


 車に乗り込む前、麦人はベランダの植木鉢を見つめた。


「枝豆、ちゃんと育つかな。」


「毎日見てあげたら育つよ。」


「ぼく、次に来るまで見られない。」


 恵子はそっと麦人の肩に手を置いた。


「じゃあ、恵子さんが代わりに見とく。」


「ほんと?」


「もちろん。」


「でも、ぼくも毎日思い出す。」


「それで十分。」


 風が吹き、枝豆を植えたばかりの鉢の土が、やさしく乾き始めていた。


     ◇


 車がゆっくりと団地を離れる。


 窓から手を振る麦人に、恵子はいつものように大きく手を振り返した。


「またね、むーさん!」


「また来るね、恵子さん!」


 車が見えなくなるまで見送った恵子は、ふとベランダへ戻り、枝豆の鉢に目をやった。


 土の表面が、ほんの少しだけ盛り上がっているように見えた。


「まだ早いか。」


 そう笑いながらも、どこか確信めいた表情を浮かべる。


 風が吹く。


 初夏の風は、土の中で眠る小さな命へ、「もうすぐだよ」と語りかけているようだった。


 巡る季節は、また一歩、夏へ近づいていた。


              ――第二部「薫る初夏」・完――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。