第六章 薫る初夏 後編
翌朝。
団地のベランダでは、朝露をまとったミニトマトが朝日に照らされ、赤い宝石のように輝いていた。
キュウリの葉には、小さな水玉がいくつも並んでいる。
恵子はじょうろを持ち、いつものように野菜へ声をかけた。
「おはよう。今日も元気じゃね。」
麦人も眠そうな目をこすりながらベランダへ出てきた。
「おはよう、トマト。」
恵子はくすっと笑う。
「昨日の続きじゃね。」
「うん。ちゃんとあいさつした。」
その時、一羽のスズメが手すりにとまった。
チュン、チュン。
まるで二人の朝のあいさつに返事をしたようだった。
◇
朝ご飯を食べ終えると、恵子は麦人に小さな袋を渡した。
「はい。」
「なに?」
「野菜の種。」
袋には「枝豆」と書かれている。
「植えるの?」
「むーさん専用の畑。」
「ベランダなのに?」
「小さくても畑は畑。」
恵子は植木鉢に土を入れ、麦人へ小さなスコップを渡した。
「指で穴を開けて。」
「これくらい?」
「もうちょっと浅く。」
麦人は慎重に種を置き、やさしく土をかぶせた。
「これでいい?」
「いいよ。」
最後に二人で水をかける。
土からふわっと、雨上がりのような匂いが立ち上った。
「早く育たないかなぁ。」
麦人がつぶやく。
恵子は首を横に振った。
「急いだら、種がびっくりする。」
「種も?」
「みんな、自分の速さがある。」
◇
午後になると、空が急に暗くなった。
風が強く吹き始める。
「雨?」
麦人が窓を見る。
ポツン。
ポツポツ。
やがて大粒の雨が降り始めた。
「夕立じゃ。」
恵子は急いでベランダの洗濯物を取り込む。
「むーさん、手伝って。」
「任せて!」
二人で笑いながら洗濯物を抱え込み、ぎりぎり間に合った。
窓の外では、雨粒がベランダの野菜を勢いよく打っている。
「トマト、大丈夫かな。」
麦人が心配そうにつぶやく。
「大丈夫。」
恵子は雨を眺めながら言った。
「雨も野菜にはごちそうなんよ。」
「こんなに降っても?」
「晴れだけじゃ育たん。」
その言葉に、麦人は窓へ目を向けた。
「人も?」
「そう。」
恵子は静かにうなずく。
「悲しい日も、悔しい日もあるけぇ、人は優しくなれる。」
雨音だけが部屋に響いた。
◇
夕立は一時間ほどで止んだ。
西の空から夕日が差し込み、大きな虹が山の向こうへ架かった。
「恵子さん!」
麦人は窓を開けた。
「虹!」
「大きいねぇ。」
二人は急いで外へ出た。
団地の広場には、子どもも大人も集まり、みんな空を見上げている。
「きれいやなぁ。」
「久しぶりに見た。」
誰もが笑顔だった。
虹は七色の橋となって、空いっぱいに伸びている。
「恵子さん。」
「ん?」
「虹って、なんで出るの?」
「雨とお日さまが仲直りしたしるし。」
「それ、本当?」
麦人が笑う。
「科学では違うかもしれん。」
恵子も笑った。
「でも、そう思うと虹がもっと好きにならん?」
麦人はもう一度虹を見上げた。
「うん。」
理屈では説明できても、心で感じることは別なのだと、少しだけ分かった気がした。
◇
帰る時間が近づいた。
車に乗り込む前、麦人はベランダの植木鉢を見つめた。
「枝豆、ちゃんと育つかな。」
「毎日見てあげたら育つよ。」
「ぼく、次に来るまで見られない。」
恵子はそっと麦人の肩に手を置いた。
「じゃあ、恵子さんが代わりに見とく。」
「ほんと?」
「もちろん。」
「でも、ぼくも毎日思い出す。」
「それで十分。」
風が吹き、枝豆を植えたばかりの鉢の土が、やさしく乾き始めていた。
◇
車がゆっくりと団地を離れる。
窓から手を振る麦人に、恵子はいつものように大きく手を振り返した。
「またね、むーさん!」
「また来るね、恵子さん!」
車が見えなくなるまで見送った恵子は、ふとベランダへ戻り、枝豆の鉢に目をやった。
土の表面が、ほんの少しだけ盛り上がっているように見えた。
「まだ早いか。」
そう笑いながらも、どこか確信めいた表情を浮かべる。
風が吹く。
初夏の風は、土の中で眠る小さな命へ、「もうすぐだよ」と語りかけているようだった。
巡る季節は、また一歩、夏へ近づいていた。
――第二部「薫る初夏」・完――




