第五章 薫る初夏 中編
夕方になると、昼間の暑さは少しだけやわらいだ。
団地のベランダでは、ミニトマトが赤く色づき始め、キュウリのつるは手すりに巻きつくように伸びている。
恵子はじょうろを持って、一鉢ずつゆっくり水をやった。
「ほら、おいしく育つんよ。」
「野菜に話しかけてるの?」
麦人が不思議そうに聞く。
「そう。」
「聞こえるの?」
「聞こえとるかどうかは分からん。でもね。」
恵子はトマトの葉を優しくなでた。
「生きもんは、声より気持ちを先に受け取るけぇ。」
麦人は少し考えてから、自分もナスの苗に水をあげた。
「大きくなれよ。」
すると風が吹き、葉っぱが小さく揺れた。
「今、お礼言った?」
「そう思えたなら、それでええ。」
恵子は笑った。
◇
日が傾き始めるころ、二人は団地の裏を流れる小川へ向かった。
恵子の手には小さな懐中電灯。
麦人の手には水筒。
「ホタルって、何時に来るの?」
「急かしたら来んよ。」
「またそれだ。」
「待つ時間も、楽しみのうち。」
麦人は苦笑いした。
「恵子さんって、待つの好きだよね。」
「好きというより、待ってる間に見えるもんがあるんよ。」
◇
二人は川辺の大きな石に腰を下ろした。
水はさらさらと流れ、カエルが鳴き始める。
遠くでヒグラシが「カナカナカナ……」と鳴いていた。
「静かだね。」
「静かじゃないよ。」
恵子が耳を澄ます。
「ほら。」
麦人も目を閉じる。
川の音。
風が葉を揺らす音。
鳥が羽ばたく音。
虫の声。
「あ……。」
「静かなようで、みんなおしゃべりしよる。」
麦人は小さく笑った。
「ほんとだ。」
◇
少しずつ空が群青色に変わる。
麦人は待ちきれず立ち上がった。
「まだ?」
「もう少し。」
「まだ?」
「もう少し。」
三度目に聞こうとした、その時だった。
「……いた。」
恵子が静かに指をさした。
川の向こうに、小さな黄緑色の光が一つ。
ふわり。
また一つ。
そして、もう一つ。
「わあ……。」
麦人は思わず息をのんだ。
光はゆっくりと宙を漂い、まるで星が地上へ降りてきたようだった。
「すごい……。」
さっきまでの元気な声はなくなり、小さくつぶやくだけだった。
◇
ホタルは何匹も現れ、小川の上を静かに舞っていた。
誰も急がない。
誰も競わない。
ただ、自分の光を灯して飛んでいる。
「恵子さん。」
「ん?」
「ホタルって、なんで光るの?」
「生きてるよって知らせるためかな。」
「へえ。」
「人も同じかもしれんね。」
「え?」
「人にも、その人だけの光がある。」
麦人は首をかしげる。
「ぼくにも?」
「もちろん。」
「どこに?」
恵子は麦人の胸を、そっと人差し指で軽くつついた。
「ここ。」
麦人は自分の胸に手を当てた。
「見えない。」
「大事なもんは、見えんことも多い。」
その言葉は、ホタルの淡い光のように、麦人の心へ静かに灯った。
◇
帰る前、恵子は川へ向かって小さく頭を下げた。
「今年もありがとう。」
「誰に言ったの?」
「ホタルさんにも、川にも。」
「川にも?」
「きれいな水があるから、ホタルは帰って来られるんよ。」
麦人は川を見つめた。
昼間は何気なく見ていた流れが、今は宝物のように思えた。
「来年も来ようね。」
「うん。」
「その次の年も。」
「うん。」
恵子は少しだけ空を見上げた。
「来られる年は、毎年来よう。」
その言葉に、麦人は大きくうなずいた。
「約束!」
恵子は笑顔で小指を差し出す。
「約束。」
二人の指が結ばれたその上を、一匹のホタルがふわりと横切った。
まるで、その約束を見届けるように。
――第五章 薫る初夏 中編・終――




