第四章 薫る初夏 前編
ゴールデンウィークが過ぎると、春は少しずつ背中を見せ始めた。
団地のベランダでは、色んな季節の野菜を育てている。
風は少しだけ青葉の匂いを運び、空には白い雲がゆっくりと流れていた。
恵子はベランダで洗濯物を干しながら、大きく伸びをした。
「今日は、ええ匂いじゃ。」
目を閉じて風を吸い込む。
「新しい葉っぱの匂い……それに、お日さまの匂い。」
そこへ団地の階段を駆け上がる元気な足音が響いた。
「恵子さーん!」
聞き慣れた声に、恵子は思わず笑みを浮かべる。
「むーさん、おかえり。」
「ただいま!」
麦人はランドセルを玄関へ置くと、そのまま台所へ飛び込んだ。
「今日は何作ってるの?」
「まだ秘密。」
「カレー?」
「違う。」
「ハンバーグ?」
「違う。」
「じゃあオムライス!」
「残念。」
恵子は鍋のふたを開ける。
ふわりと甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
「たけのこご飯。」
「えーっ!」
麦人は少し肩を落とした。
その顔を見て、恵子は笑いながら言う。
「食べてから文句を言い。」
◇
昼食の席。
一口食べた麦人は、箸が止まらなくなった。
「……おいしい。」
「じゃろ?」
「なんでこんなに違うの?」
「隠し味。」
「何?」
「秘密。」
「ずるい!」
賢蔵が味噌汁をすすりながら、ぽつりと言った。
「腹が減っとるのも、隠し味じゃ。」
その一言に三人は大笑いした。
◇
食後、恵子が麦わら帽子をかぶる。
「むーさん、ちょっと付き合って。」
「どこ行くの?」
「団地の裏山。」
「山?」
「探し物。」
麦人の目が輝く。
「宝探し?」
「そうかもしれんね。」
恵子は意味ありげに笑った。
◇
裏山へ続く細い坂道。
木漏れ日が揺れ、小鳥のさえずりが響く。
麦人は葉っぱを拾ったり、虫を見つけたりしながら歩く。
「恵子さん!」
「ん?」
「この葉っぱ、ハートみたい!」
「ほんとじゃ。」
恵子は葉を受け取り、そっとポケットへしまった。
「あとで押し葉にしよう。」
「いいね!」
歩いていると、恵子が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「静かに。」
麦人も耳を澄ます。
カサ……カサ……。
草むらから小さな音が聞こえた。
すると、一匹の小さなカメがのそのそと姿を現した。
「カメだ!」
麦人はしゃがみ込む。
甲羅には泥がつき、ゆっくりゆっくり歩いている。
「どこ行くんだろう。」
「急がんでも、ちゃんと行きたい所へ行ける。」
恵子は微笑んだ。
「カメは、それを知っとる。」
麦人はしばらくカメを見つめていた。
「ぼくだったら走っちゃうな。」
「むーさんは、走るのが好きじゃけぇね。」
「うん!」
「でもね。」
恵子はカメの歩く先へ目を向ける。
「ゆっくりだから見える景色もある。」
麦人は何も言わず、カメの後ろをゆっくり歩き始めた。
足元には、小さな白い花が咲いていた。
「……ほんとだ。」
「何が?」
「さっき走ってたら、この花見つけられなかった。」
恵子はうれしそうに笑った。
「それが今日の宝物。」
◇
帰り道。
二人はハートの葉っぱと、小さな野の花を摘んで団地へ戻った。
夕暮れが近づき、空は淡いオレンジ色に染まり始めている。
そのとき、風がふわりと吹いた。
恵子は立ち止まり、目を閉じる。
「……今年も来るね。」
「何が?」
「ホタル。」
「えっ!」
麦人の目が丸くなる。
「見られるの?」
「見られるかどうかは、ホタルさん次第。」
そう言って、恵子は空を見上げた。
初夏の風は、どこか懐かしい匂いを運んでいた。
その風が、もうすぐ始まる小さな夜の奇跡を、二人だけにそっと知らせているようだった。
――第四章 薫る初夏 前編・終――




