第三章 迎える春 後編
翌朝。
団地の窓から差し込む朝日が、カーテンをやさしく揺らしていた。
「むーさん、朝だよ。」
恵子の声に、麦人は布団の中でもぞもぞと動く。
「あと五分……。」
「五分待ったら、お日さまが帰るかもしれんよ。」
「それはないでしょ。」
布団から顔だけ出した麦人が笑う。
「理屈ではそうじゃね。」
恵子はにっこり笑って続けた。
「でも、朝の風は待ってくれんよ。」
その一言で、麦人は勢いよく起き上がった。
「じゃあ急ぐ!」
「ほら、やっぱり待ってくれんかった。」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
朝食は焼き鮭と味噌汁、炊きたてのご飯、それに恵子の漬けた菜の花のおひたしだった。
「おいしい!」
麦人は夢中でご飯を頬張る。
「そんなに急がんでも、ご飯は逃げんよ。」
「おいしいから!」
賢蔵は新聞を畳みながら、小さく笑った。
「食べる姿が一番うまそうじゃ。」
麦人は照れくさそうに笑う。
◇
食後、恵子は竹ぼうきを手にした。
「今日は団地のお掃除の日。」
「ぼくもやる!」
軍手をはめた麦人は、少し大きめのほうきを抱えて外へ出る。
団地の広場には、顔なじみの住人たちが集まっていた。
「おはよう、むーさん!」
「大きくなったねぇ。」
「また遊びに来たんか。」
みんなが笑顔で声をかけてくれる。
麦人も少し照れながら、
「おはようございます!」
と元気よく頭を下げた。
◇
広場の隅では、一人のおばあさんが重そうな植木鉢を動かそうとしていた。
麦人は駆け寄る。
「ぼく、持ちます!」
力いっぱい持ち上げる。
「よいしょ……!」
しかし重くて、ぐらりと植木鉢が傾いた。
その時だった。
後ろから賢蔵がそっと手を添えた。
「二人で持てば軽い。」
「じいちゃん。」
「一人で頑張るより、頼ることも力じゃ。」
麦人はうなずいた。
「うん!」
二人で運んだ植木鉢は、無事に花壇の前へ収まった。
おばあさんは何度も頭を下げた。
「ありがとうねぇ。」
麦人は少し照れながら笑った。
「どういたしまして!」
◇
掃除が終わるころには、団地の広場はすっかりきれいになっていた。
その時、ふわりと風が吹く。
見上げると、団地の真ん中に立つ一本の桜が、昨日よりもたくさん花を咲かせていた。
「あっ!」
麦人が息をのむ。
「昨日より咲いてる!」
「春は一日で景色を変えることがあるんよ。」
恵子が静かに言う。
花びらが風に舞い、掃除を終えた人たちの肩へ、帽子へ、ほうきへと降り積もる。
誰かが拍手をした。
「咲いたねぇ。」
「今年もきれいや。」
団地中が笑顔になった。
◇
恵子は桜を見上げながら、小さくつぶやく。
「おかえり。」
麦人は首をかしげた。
「誰に?」
「春に。」
「春って帰ってくるものなの?」
「帰ってくるよ。」
恵子は微笑んだ。
「去年も、一昨年も、その前も。春は忘れずに帰ってきた。」
麦人は満開になり始めた桜を見上げる。
「じゃあ来年も?」
「もちろん。」
「ぼく、大きくなってても?」
「大きくなっても。」
「大人になっても?」
「なっても。」
恵子は麦人の頭をそっと撫でた。
「季節は、人を待ってくれる。」
「でも、人は同じじゃない。」
その言葉に、麦人は少しだけ胸がきゅっとした。
◇
帰る時間が近づいた。
父が運転する車が団地の前で待っている。
「じゃあ、恵子さん。また来るね!」
「いつでもおいで。」
「じいちゃんも元気でね!」
「ああ。」
賢蔵はいつものように短く答え、手を振った。
車がゆっくりと動き出す。
窓を開けた麦人が大きく手を振る。
「恵子さーーん!」
恵子も笑顔で両手を振り返した。
「またね、むーさん!」
車が角を曲がって見えなくなっても、恵子はしばらくその場に立っていた。
春風が髪を揺らす。
桜の花びらが一枚、恵子の肩に舞い降りた。
「今年も始まったね。」
その言葉に応えるように、団地の桜は満開へ向かって静かに咲き続けていた。
こうして、一つ目の季節が動き始める。
麦人の心にも、小さな春が芽吹いていた。
――第一部「迎える春」・完――




