第二章 迎える春 中編
「……ニャー。」
風に乗って届いた小さな鳴き声は、今度ははっきりと聞こえた。
「いた!」
麦人は声のするほうへ駆け出そうとした。
「むーさん。」
恵子が優しく呼び止める。
「急ぐと、怖がらせるよ。」
麦人は足を止めた。
「でも、猫が困ってるかもしれない。」
「だからこそ、ゆっくり。」
恵子はそう言うと、川沿いの土手を静かに歩き始めた。
風が草を揺らし、小さな花々が頭を下げる。
まるで「こっちですよ」と道案内をしているようだった。
◇
土手の端にある古い桜の木。
その根元の草むらで、一匹の白い子猫が体を丸めていた。
まだ生まれて間もないのだろう。
片手で抱えられるほど小さく、薄い桜色の鼻をひくひくと動かしている。
「かわいい……。」
麦人は思わず笑顔になった。
だが、子猫は「シャーッ」と小さく威嚇した。
「うわっ!」
思わず一歩下がる麦人。
恵子はしゃがみ込み、何も言わずに子猫を見つめた。
「怖かったんやね。」
その一言だけだった。
不思議なことに、子猫は威嚇をやめ、小さく「ニャ」と鳴いた。
「え?」
麦人は目を丸くする。
「なんで?」
「なんでじゃろうねぇ。」
恵子は笑うだけだった。
◇
「迷子かな。」
麦人が辺りを見回す。
親猫の姿はない。
人の気配もない。
聞こえるのは川の流れる音と、遠くで遊ぶ子どもたちの笑い声だけ。
「抱っこして帰ろうよ。」
麦人が言うと、恵子は首を横に振った。
「まだ待とう。」
「どうして?」
「この子のお母さんが探しよるかもしれん。」
麦人は少し考えた。
「そうか……。」
自分だったら、お母さんが迎えに来てくれたほうがうれしい。
そう思うと、子猫を連れて帰る気持ちは少しだけ小さくなった。
◇
二人は少し離れた場所に腰を下ろした。
春風が頬をなでる。
つくしが揺れ、川面がきらきらと光っている。
恵子は買い物かごから小さな水筒を取り出した。
「はい、お茶。」
「ありがとう。」
二人でお茶を飲みながら、子猫を見守る。
「恵子さん。」
「ん?」
「なんでそんなに待てるの?」
恵子は少し笑った。
「待つのも、大事なお仕事。」
「仕事?」
「春は急がんのよ。」
そう言って、桜の枝を見上げる。
「桜も、自分の番が来るまで待つじゃろ。」
麦人も見上げた。
枝先には、ふくらんだ蕾が春の日差しを浴びている。
「ほんとだ。」
「人も同じ。」
「……。」
「急いで咲こうとした花は、長く咲けんのよ。」
その言葉は、麦人の胸に静かに残った。
◇
しばらくすると、草むらの向こうから一匹の三毛猫が姿を現した。
「ニャーン。」
子猫が勢いよく鳴く。
「お母さん!」
思わず麦人も声を上げた。
三毛猫は周りを警戒しながら近づき、子猫の体を何度もなめた。
子猫も安心したように体を寄せる。
「よかったぁ。」
麦人は胸をなで下ろした。
「ほらね。」
恵子が優しく言う。
「ちゃんと迎えに来た。」
「うん!」
「待ってよかったじゃろ。」
麦人は大きくうなずいた。
「うん!」
◇
親子の猫は並んで歩き、土手の向こうへ消えていく。
その後ろ姿を見送りながら、麦人がぽつりと言った。
「ぼくさ……。」
「ん?」
「さっきすぐ連れて帰ろうって思った。」
「優しかったからじゃ。」
「でも、お母さんと離れちゃうところだった。」
恵子は麦人の肩を軽くたたいた。
「優しさはね。」
「うん。」
「相手が何を望んどるかを考えてあげて、初めて優しさになるんよ。」
麦人は静かにその言葉をかみしめた。
◇
帰り道。
団地へ続く坂道を歩いていると、一陣の風が吹き抜けた。
桜の枝が、かすかに揺れる。
その瞬間――。
ぱちり。
一輪だけ桜が花を開いた。
「恵子さん!」
麦人が指さす。
「咲いた!」
恵子は目を細めて微笑んだ。
「春が『おかえり』って言うたんやね。」
麦人も笑った。
「そうかもしれない。」
風は何も答えなかった。
けれど、その優しい暖かさは、二人の背中をそっと押してくれているようだった。
――第二章 迎える春 中編・終――




