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めぐる季節は麦の道  作者: まーサンタ


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2/14

第一章 迎える春 前編


 三月の終わり。


 冬の冷たさを残した風が、ゆっくりと春へと衣替えを始めていた。


 大分の山並みはやわらかな緑をまとい、団地の花壇では、黄色い菜の花が風に揺れている。


 伊達恵子は、団地の四階のベランダで洗濯物を干していた。


「今日はええ風じゃねぇ。」


 茶色く染めた髪は、朝から好き放題に跳ねている。


 鏡を見れば、まるで神話に出てくるメデューサそのもの。


 本人は気にもせず、洗濯ばさみを口にくわえたまま空を見上げた。


 青い空に、白い雲がゆっくり流れていく。


 その向こうを、二羽のツバメが気持ちよさそうに飛んでいた。


「……あら。」


 恵子は手を止める。


 風の匂いが変わった。


 ほんの少しだけ、懐かしい匂い。


 桜のつぼみが開く前の、やさしい土の香りだった。


「むーさんが来るね。」


 誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。


 その声は、春風に溶けていった。


     ◇


 一時間後。


 一台の車が団地の駐車場へ滑り込む。


 助手席から勢いよく飛び出してきたのは、小学二年生になったばかりの伊達麦人だった。


「恵子さーーん!」


 ランドセルを背負ったまま走る。


「走ったら転ぶよー。」


 四階のベランダから恵子が手を振る。


「転ばないって!」


 そう言った次の瞬間。


「うわっ!」


 小さな段差につまずき、見事に尻もちをついた。


 その様子を見ていた近所のおばあさんたちが笑い出す。


「まぁ元気やねぇ。」


「相変わらずや。」


 麦人は照れ笑いを浮かべながら立ち上がった。


「これは計算だから。」


「何の計算?」


 いつの間にか階段を下りてきた恵子が笑う。


「痛いかどうか調べただけ。」


「ほう。地面はどうやった?」


「……固かった。」


「そうじゃろ。」


 二人は顔を見合わせ、大笑いした。


     ◇


 部屋へ入ると、どこか懐かしい匂いが迎えてくれる。


 煮物の甘い香り。


 炊きたてのご飯。


 味噌汁に浮かぶネギの匂い。


「じいちゃん、おる?」


「おるよ。」


 居間では、賢蔵が新聞を広げていた。


「よう来たな。」


「じいちゃん!」


 麦人はランドセルを放り出し、そのまま賢蔵へ飛びつく。


「こらこら。」


 賢蔵は笑いながら頭をなでた。


 口数は少ない。


 けれど、その大きな手は昔から変わらず温かかった。


     ◇


 昼ご飯を食べ終えると、恵子が買い物かごを持った。


「むーさん、散歩に行こうか。」


「散歩?」


「今日は春がおるけぇ。」


「春は季節でしょ?」


「季節にも顔があるんよ。」


 麦人は首をかしげる。


「そんなの見えないよ。」


「見えん人もおる。」


「じゃあ恵子さんは見えるの?」


「見えるんじゃないよ。」


 恵子は空を見上げ、目を細める。


「感じるだけ。」


 その言葉の意味は、まだ麦人には分からなかった。


     ◇


 二人は団地を出て、小さな川へ向かう。


 川岸には、つくしが顔を出し、タンポポが咲き始めていた。


 風がふわりと吹く。


 その風に乗って、一枚だけ桜の花びらが舞ってきた。


「え?」


 麦人は空を見上げる。


 まだ桜はほとんど咲いていない。


「なんで?」


 恵子は、その花びらをそっと手のひらで受け止めた。


「今年の春は、少し急ぎ足みたい。」


 そう微笑む。


 そのときだった。


 どこからともなく、小さな猫の鳴き声が聞こえた。


「……ニャー。」


 麦人が振り返る。


「恵子さん、今の聞こえた?」


「うん。」


 恵子はゆっくりとうなずく。


「春のお客さんが来たみたいやね。」


 風がもう一度、二人の間をやさしく吹き抜けた。


 その先に待つ出会いが、麦人の春を大きく変えていくことを、このとき二人はまだ知らなかった。


                      ――第一章 迎える春 前編・終――

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