第一章 迎える春 前編
三月の終わり。
冬の冷たさを残した風が、ゆっくりと春へと衣替えを始めていた。
大分の山並みはやわらかな緑をまとい、団地の花壇では、黄色い菜の花が風に揺れている。
伊達恵子は、団地の四階のベランダで洗濯物を干していた。
「今日はええ風じゃねぇ。」
茶色く染めた髪は、朝から好き放題に跳ねている。
鏡を見れば、まるで神話に出てくるメデューサそのもの。
本人は気にもせず、洗濯ばさみを口にくわえたまま空を見上げた。
青い空に、白い雲がゆっくり流れていく。
その向こうを、二羽のツバメが気持ちよさそうに飛んでいた。
「……あら。」
恵子は手を止める。
風の匂いが変わった。
ほんの少しだけ、懐かしい匂い。
桜のつぼみが開く前の、やさしい土の香りだった。
「むーさんが来るね。」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。
その声は、春風に溶けていった。
◇
一時間後。
一台の車が団地の駐車場へ滑り込む。
助手席から勢いよく飛び出してきたのは、小学二年生になったばかりの伊達麦人だった。
「恵子さーーん!」
ランドセルを背負ったまま走る。
「走ったら転ぶよー。」
四階のベランダから恵子が手を振る。
「転ばないって!」
そう言った次の瞬間。
「うわっ!」
小さな段差につまずき、見事に尻もちをついた。
その様子を見ていた近所のおばあさんたちが笑い出す。
「まぁ元気やねぇ。」
「相変わらずや。」
麦人は照れ笑いを浮かべながら立ち上がった。
「これは計算だから。」
「何の計算?」
いつの間にか階段を下りてきた恵子が笑う。
「痛いかどうか調べただけ。」
「ほう。地面はどうやった?」
「……固かった。」
「そうじゃろ。」
二人は顔を見合わせ、大笑いした。
◇
部屋へ入ると、どこか懐かしい匂いが迎えてくれる。
煮物の甘い香り。
炊きたてのご飯。
味噌汁に浮かぶネギの匂い。
「じいちゃん、おる?」
「おるよ。」
居間では、賢蔵が新聞を広げていた。
「よう来たな。」
「じいちゃん!」
麦人はランドセルを放り出し、そのまま賢蔵へ飛びつく。
「こらこら。」
賢蔵は笑いながら頭をなでた。
口数は少ない。
けれど、その大きな手は昔から変わらず温かかった。
◇
昼ご飯を食べ終えると、恵子が買い物かごを持った。
「むーさん、散歩に行こうか。」
「散歩?」
「今日は春がおるけぇ。」
「春は季節でしょ?」
「季節にも顔があるんよ。」
麦人は首をかしげる。
「そんなの見えないよ。」
「見えん人もおる。」
「じゃあ恵子さんは見えるの?」
「見えるんじゃないよ。」
恵子は空を見上げ、目を細める。
「感じるだけ。」
その言葉の意味は、まだ麦人には分からなかった。
◇
二人は団地を出て、小さな川へ向かう。
川岸には、つくしが顔を出し、タンポポが咲き始めていた。
風がふわりと吹く。
その風に乗って、一枚だけ桜の花びらが舞ってきた。
「え?」
麦人は空を見上げる。
まだ桜はほとんど咲いていない。
「なんで?」
恵子は、その花びらをそっと手のひらで受け止めた。
「今年の春は、少し急ぎ足みたい。」
そう微笑む。
そのときだった。
どこからともなく、小さな猫の鳴き声が聞こえた。
「……ニャー。」
麦人が振り返る。
「恵子さん、今の聞こえた?」
「うん。」
恵子はゆっくりとうなずく。
「春のお客さんが来たみたいやね。」
風がもう一度、二人の間をやさしく吹き抜けた。
その先に待つ出会いが、麦人の春を大きく変えていくことを、このとき二人はまだ知らなかった。
――第一章 迎える春 前編・終――




