第十二章 ぬくもりの冬 後編
一月の終わり。
冬の朝は、まだ眠そうな空をしていた。
団地のベランダでは、小松菜が冷たい風に揺れ、それでもしっかりと葉を広げている。
恵子は湯気の立つマグカップを片手に、小さく笑った。
「寒いのによく頑張るね。」
その声に応えるように、小松菜の葉が風に揺れた。
◇
昼前。
麦人はいつものように団地へやって来た。
「恵子さん!」
「いらっしゃい、むーさん。」
玄関へ入るなり、麦人はランドセルから一枚の画用紙を取り出した。
「見て!」
色鉛筆で描かれた絵には、団地の前で笑う三人の姿があった。
恵子と賢蔵、そして麦人。
後ろには桜の木、ホタルが飛ぶ川、黄金色のイチョウ、雪だるま。
一年の思い出が、一枚の絵の中にぎゅっと詰まっていた。
「……わぁ。」
恵子はしばらく言葉が出なかった。
「学校で描いたんだ。」
「上手だね。」
「題名もあるよ。」
麦人は少し照れながら画用紙を裏返した。
そこには大きな字で書かれていた。
『めぐる季節は麦の道』
恵子は思わず笑顔になった。
「いい題名だね。」
「先生がね、『どういう意味?』って聞いたんだ。」
「むーさん、なんて答えたの?」
麦人は少し考えてから話し始めた。
「春も夏も秋も冬も、毎年巡ってくるでしょ?」
「うん。」
「ぼくも毎年ここへ来る。」
「うん。」
「だから、ぼくが歩く道には、いつも季節と恵子さんがいるんだ。」
恵子はそっと画用紙を胸に抱いた。
「ありがとう。」
その一言に、たくさんの想いが込められていた。
◇
午後。
三人は近くの土手まで散歩に出かけた。
春には菜の花が咲き、夏には青葉が揺れ、秋にはススキが光り、冬には霜がおりる道。
今は静かな冬景色だった。
麦人は空を見上げる。
「春、まだかな。」
「もうすぐだよ。」
恵子が微笑む。
「見えないところで、ちゃんと準備してる。」
道ばたの木を見ると、小さな芽が枝の先にふくらんでいた。
「あっ!」
「見つけた?」
「春の赤ちゃん。」
「そう。」
恵子はうれしそうにうなずく。
「春はね、急に来るんじゃない。」
「うん。」
「冬の間に、少しずつ歩いて来るんだよ。」
◇
帰り道。
団地の前まで来ると、一陣の風が吹いた。
その風は冷たいのに、どこかやわらかい。
「この風……。」
恵子は空を見上げた。
「春の匂いがする。」
麦人も大きく息を吸い込む。
「分かんない。」
「そのうち分かるよ。」
「ほんと?」
「うん。」
「むーさんも、いつか風と仲良くなれる。」
麦人は笑った。
「その時は、恵子さんみたいになれるかな。」
「むーさんは、むーさんになればいい。」
その言葉に、麦人は大きくうなずいた。
「うん!」
◇
帰る時間。
車に乗り込む前、麦人はもう一度団地を振り返った。
ベランダ。
花壇。
大きな桜の木。
いつもの景色。
「また来るね。」
「待ってるよ。」
恵子は笑顔で手を振る。
車がゆっくりと走り出す。
窓を開けた麦人も、大きく手を振った。
「恵子さーん!」
「またね、むーさん!」
車が見えなくなるまで、恵子はその場に立っていた。
隣には賢蔵。
「寂しいか。」
賢蔵が聞く。
恵子は少しだけ笑う。
「うん。でもね。」
「ん?」
「また会えるって分かってるから。」
賢蔵もうなずいた。
「季節みたいにな。」
「そう。」
二人は並んで歩き出す。
その時、桜の枝先から、小さな蕾が一つ、やわらかく揺れた。
冬は終わろうとしていた。
季節は巡る。
人もまた巡り会い、別れ、そしてまた巡り会う。
麦人の歩く道には、これからもたくさんの季節が訪れるだろう。
うれしい日も、悲しい日も、迷う日もある。
けれど、その道のどこかには、きっと恵子の笑顔がある。
風に耳を澄ませば聞こえてくる。
「むーさん、急がなくていいよ。」
「自分の歩幅で歩けばいい。」
その言葉を胸に、麦人はまた一歩、未来へ歩き始める。
そして今日も、どこかで季節は静かに巡っている。
――『めぐる季節は麦の道』 完――




