第九章 実りの秋 後編
十月も終わりに近づいたある朝。
団地の木々は赤や黄色に色づき、風が吹くたびに葉っぱが音を立てて舞い落ちる。
ベランダでは、小松菜が青々と育ち、ほうれん草も元気に葉を広げていた。
恵子はしゃがみ込み、小さな虫食いの葉を見つけて笑った。
「ずいぶん食いしん坊さんがおるね。」
「何が?」
麦人がベランダへ出てくる。
「ほら、この穴。」
「あ、本当だ。」
「虫さんも『おいしい』って思った証拠だね。」
「えぇ~。ぼくの小松菜なのに。」
少し口をとがらせる麦人。
恵子はくすっと笑った。
「全部食べられたら困るけど、少しくらいなら分けてあげてもいいじゃない。」
「そういう考え方もあるのか。」
麦人は穴の開いた葉っぱを、なんだか大事そうに見つめた。
◇
昼過ぎ。
二人は団地の裏にある小さな神社まで散歩に出かけた。
石段には、どんぐりや落ち葉がいっぱい落ちている。
「恵子さん、見て!」
麦人は帽子のついたどんぐりを拾い上げた。
「かわいい!」
「その帽子、よく似合ってるね。」
「どんぐりにも服があるんだね。」
「秋がおしゃれさせてくれたのかも。」
二人は笑いながら石段を上っていく。
◇
神社の境内には、大きなイチョウの木が立っていた。
金色の葉が、太陽の光を受けてきらきら輝いている。
「わぁ……。」
麦人は思わず立ち止まった。
「こんなにきれいなんだ。」
「毎年見てるのに、毎年きれい。」
恵子は木を見上げて微笑んだ。
「同じ景色でも、その年の自分で見え方が変わるんよ。」
「そうなの?」
「去年のむーさんと、今年のむーさんは違うでしょ?」
「うん。」
「だから景色も、新しく見えるんだよ。」
麦人はもう一度イチョウを見上げた。
確かに去年より、ずっときれいに見えた。
◇
帰ろうとしたその時だった。
石段の下で、小さな女の子が泣いていた。
「どうしたの?」
麦人が駆け寄る。
「どんぐり……なくした。」
女の子は涙をぬぐいながら言った。
大切にしていた大きなどんぐりを、どこかで落としてしまったらしい。
「一緒に探そう!」
麦人はすぐに石段を探し始めた。
恵子も何も言わず、落ち葉をそっとかき分ける。
五分ほど探したころ。
「あった!」
麦人が落ち葉の下から、つやつやした大きなどんぐりを見つけた。
「これ?」
女の子の顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
大事そうに受け取ると、何度も頭を下げた。
「ありがとう!」
その笑顔は、秋の空よりも澄んでいた。
◇
団地へ戻る道。
麦人は少し照れながら言った。
「ぼく、今日はいいことした。」
「うん。」
「なんか心があったかい。」
恵子は笑顔でうなずく。
「人を喜ばせるとね、自分の心もあったかくなるんだ。」
「焼き芋みたい?」
「そうそう。」
二人は笑った。
「でもね。」
恵子は空を見上げる。
「今日見つけたのは、どんぐりだけじゃないよ。」
「え?」
「むーさんの優しい心も見つけた。」
麦人は少し照れくさそうに頭をかいた。
「そんな大げさだよ。」
「大げさじゃない。」
恵子は優しく続ける。
「優しさってね、誰かに教えてもらうものじゃなくて、自分で見つけていくものなんだ。」
麦人は静かにうなずいた。
その言葉は、秋風に乗って胸の奥へとゆっくり届いていった。
◇
夕暮れ。
団地のベランダから見える山々は、赤や黄色に染まり始めていた。
麦人は帰る前に、小松菜へ水をあげる。
「また来るね。」
小さな葉っぱが風に揺れる。
恵子はその様子を見ながら微笑んだ。
「季節はもうすぐ冬支度。」
「ちょっと寂しいね。」
「でもね。」
恵子は空へ舞う一枚の落ち葉を見つめた。
「秋が実を結ぶから、冬は春の準備ができるんだよ。」
麦人も落ち葉を目で追いかけた。
「季節って、ちゃんとつながってるんだ。」
「うん。」
「人も同じ。」
その言葉を聞きながら、麦人は夕焼け色に染まる団地を振り返った。
春に植えたアサガオは種になり、夏に見たホタルはいなくなった。
それでも、どの季節もちゃんと心の中に残っている。
そしてまた、新しい季節がやって来る。
巡る季節の中で、麦人の歩く道も少しずつ長くなっていた。
――第三部「実りの秋」・完――




