五 狂言「四句目」 ――帰らぬ舟を待つ人のあり
文台の上に、句が、三つ。
束帯の客を送り出した戸が閉まると、座は、しばらく、火の音だけになった。
「……ご立派な、お召し物でしたねえ」
と女が、燗を付け直しながら言うた。
「どちらの、どなたでしょうねえ」
白々しい、と言えば白々しい言い方であったが、誰も突かなかった。この女が、どちらのどなたか知らずに酌をしたことなど、千年に一度もないのである。
「さて、四句目じゃ」
とセンセが、講釈の顔になった。
「四句目というものはな、軽く付けるのが式目である。発句、脇、第三と、格式の句が三つ続いた。ここで力むと、巻が重くなる。さらりと、遣り句で流す。——これが、なかなか、難しい」
「難しいんですか、さらりとやるのが」
「難しい。力を抜く、というのは、力の要ることでな」
もっともらしいことを言うて、センセは女を見た。
「そなたの番じゃ」
女は、へえ、と言うて、燗の徳利を布巾で拭いた。
拭きながら、文台の三句目を、ちらと見た。
雪の渚の、朽ちた大船の句である。
それから、こともなげに、言うた。
「——帰らぬ舟を待つ人のあり」
執筆の筆が、すぐに、下りた。
迷いのない下り方であった。
センセが、腕を組んで、検分した。
「ふむ。……浦の景に、人をひとつ置いたか。朽ち船に、待つ人。付き過ぎず、離れ過ぎず。軽い。型どおりの、良い遣り句じゃ」
型どおり、で済むなら、それでよいのである。
済まない読み方も、あるにはある。
渚で朽ちた船に、帰らぬ舟を待つ人を付けた——それだけの句である。それだけの句を、書き終えた執筆の少女が、なぜだか、顔を上げて、女を一度だけ、見た。
女は、徳利を振って、
「空です」
と言うた。それで、その話は仕舞いになった。
囲炉裏の端で、爺が、湯呑みを抱えたまま、ぽつりと言うた。
「……待つ人なら、見たよ。長いこと、待ってたねえ。しまいにゃ、尼さんに、なってた。……五十年は、待ってたか。いつの話だったか。これからの話だったか」
誰も聞いていなかった。
「しかし、そなた」とセンセが女に言うた。「速いのう。思案の間というものが、まるで、なかったぞ。どこで詠み方を覚えた」
「覚えちゃいませんよ」
女は、新しい燗を火にかけた。
「酒の席で聞いた話が、千年ぶん、ありますから。付く話なんて、どれかしらの話に、もう、あるんです。あたしは、思い出すだけ」
座興の自慢話として、それは、どっと笑いを取った。
座興の自慢話に、嘘はひとつもなかったのだが、それを勘定する者は、いなかった。
「千年ぶんとは、大きく出たな」
「大きく出ないと、座興になりませんでしょ」
燗が回って、話が流れて、巻は、また少し、進んだ。
文台の上に、句が、四つ。
——帰らぬ舟を待つ人のあり
軽い句である。
軽い句の底に、何が沈んでいるかは、書いた墨も、言わない。




