四 実朝 ――大船の朽ちし渚も雪降りて
戸を、叩く音がした。
一度。
よく通る、迷いのない音である。
叩き慣れておらぬ者の音でもあった。生涯、戸というものは、向こうから開くものだったのであろう。
センセが開けると、雪あかりの中に、若い貴人が立っていた。
束帯である。
冠から肩から、雪。よほど降る中を来たと見えて、袍の黒が、雪の重みで濡れ光っていた。
供は、ない。
貴人がひとり、雪の枯野を、供も傘もなく歩いてくる——その絵のありえなさを、座の誰も、口にしなかった。
「歌の座がある、と聞きまして」
と貴人は言うた。若い、澄んだ声である。
「……連歌、いや、俳諧の座と聞きましたが。わたくしは、歌の者です。三十一文字しか、存じません。それでも、よろしいか」
「よろしいですとも」とセンセが言うた。「短いぶんには、慣れです」
慣れです、で束帯の貴人を上げる亭主も亭主だが、上がる貴人も貴人である。
円座に着いて、燗が出た。貴人は盃の作法だけ美しく、飲み方は、若かった。
文台の前の執筆に、貴人は、目を留めた。
童女が筆を構えているのを、しばらく、見た。
「……そなたが、書くのか」
少女は、頷いた。
貴人は、それ以上は問わず、ただ、なにか眩しいものを見る目をした。
「わたくしも、書くことで、育ちました」
と、問われもせぬことを言うた。
「師には、生涯、お目にかかったことがない。文だけです。都から届く、文だけ。文字で叱られ、文字で褒められ、文字で、歌人になりました。……文字は、人より、息が長い」
それから貴人は、文台の二句を読んだ。
枯野の句のところで、目が、すこし、止まった。
「……旅の、お方の句ですね。羨ましい」
羨ましい、と束帯の人が言うた。
「わたくしは、旅というものを、ほとんど知りません。箱根と、伊豆と。……海の向こうへ、行きたかった。唐土へ。船まで、造らせました。大きな、大きな船を」
「ほう。して、その船は」
「浮かびませんでした」
貴人は、笑うた。若い笑い方であった。
「浜で造って、浜から出せなかった。何百人で曳いても、船は、渚で動かなかった。……そのまま、朽ちました。わたくしの船は、一度も、波を知らずに」
囲炉裏の端で、爺が、ぽつりと言うた。
「……雪の二尺は、こたえるよ」
誰も聞いていなかった。貴人だけが、一瞬、爺のほうを見た。見て、何も言わず、盃に戻った。
「第三を、お願いできますかな」とセンセが言うた。「脇の次の、転じの句です。座敷の火から、どこへなりと、飛んでいただいて」
貴人は、目を閉じた。
三十一文字の人が、十七文字の器に、身を入れようとしている。
下の句のぶんだけ、何かを、置いていかねばならない。
その置き方を探す沈黙が、長かった。
やがて、目を開けて、言うた。
「——大船の朽ちし渚も雪降りて」
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
囲炉裏の火から、雪の渚へ。座敷から、いちばん遠い海際へ、句は、まっすぐ飛んでいた。
転じの句としては、見事である。見事であるが——
「……下が、ないというのは」
と貴人は、書かれた自分の句を見て、言うた。
「妙な心地です。言い残したまま、口を、閉じるようで」
「それが、俳諧です」とセンセが言うた。「言い残したところは、次の者が、付けます」
貴人は、その言葉を、ゆっくり、飲み込んだ。
「……次の者が」
そうして、初めて、腑に落ちた顔をした。
「よい遊びだ。わたくしの世にも、あればよかった。……歌は、ひとりで詠み切るものと、教わったので」
貴人は、立った。
戸口で、束帯の雪を払いもせず、一度だけ、振り返った。
「浜を、見て帰ります。……船が、まだ、あるような気がして」
雪の中へ、出ていった。
足音は、雪が、すぐに消した。
文台の上に、句が、三つ。
——大船の朽ちし渚も雪降りて
波を知らない船の句が、枯野の句の隣で、雪をかぶっている。
言い残したところは、次の者が付ける。
巻とは、そういう約束である。




