三 狂言「脇」 ――筆の氷を焙る囲炉裏火
文台の上に、句が、一つ。
客が去って、戸に手を突いたまま動かなかったセンセは、ようやく振り返ると、書物の山に頭から突っ込んだ。
「どうしたんです、急に」
「口絵じゃ! どこかに口絵が……この山の、どこかに……」
雪崩れる書物を掻き分けること半刻、センセは一冊を引きずり出し、開いて、凍りついた。
口絵と、文台の一行とを、三度、見比べた。
「…………あの御仁。まさか」
「お客様ですよ」と女が言うた。「それだけです」
女がそれだけ、と言うときは、それだけにしておくのが、この座の知恵である。センセは口をぱくぱくさせて、書物を閉じて、閉じた書物を抱きしめて、それから深呼吸をひとつして、亭主の顔を作り直した。
「と、ともあれ、脇じゃ。発句は客、脇は亭主。すなわち、この庵の主たる、わしの番である」
誰も異は唱えなかった。唱えなかったが、期待もしなかった。
センセは、宙を睨み、帳面をめくる手つきで宙をめくり、一番手を打った。
「——薬手配の文も雪道」
「見舞いの句ですか、それ」と女。「旅のお方の夢の話に、薬の手配で付ける人がありますか」
「病んで、とあるではないか」
「病んで、を受けるんじゃありません。夢を、受けるんです」
執筆の筆は、下りなかった。
筆が下りねば、句は巻に無い。誰が決めたのでもないが、この座は初手から、そういう掟で回りはじめていた。
センセは唸り、二番手を打った。
「——夢の関所を通る手形は」
「夢に関所を建てないでください」
女は容赦がない。爺が、湯呑みを抱えたまま、ぽつりと言うた。
「……夢は、手形なんぞ、なくても通るよ。あたしゃ、見たから」
誰も聞いていなかったが、センセの耳だけが、ぴくりと動いた。
センセは長いこと黙って、それから、文台の料紙と、その脇の筆と、筆の穂先に凍りかけた墨とを、順に見た。
亭主として、いま挨拶すべき相手を、探す目であった。
客は、もう、居ない。
三番手は、静かに出た。
「——筆の氷を焙る囲炉裏火」
座が、すこし、静かになった。
冬の句である。場の句である。客を送り、火の前で、凍った筆を焙って、さて、と構える亭主の挨拶——作法としては、まっすぐである。
「……お客様でなく、筆に挨拶してますけどね」
と女は言うた。言うたが、それきり突かなかった。
居ない客に挨拶するより、これから三十五句を付き合う筆に挨拶するほうが、この座では、正直というものであった。
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、七七のあとを、ついていった。
——筆の氷を焙る囲炉裏火
文台の上に、句が、二つ。
センセは、おのれの句が客の句の隣に並んだのを、いつまでも眺めて、機嫌が良かった。
「並ぶと、わしの句も、なかなか」
「並べてもらった、と言うんです、そういうのは」
勝手から、燗のついた徳利が、黙って回ってきた。
無口な大男は、注ぎもせず、勧めもせず、ただ人数ぶん、過不足なく、付けてよこす。
爺が、湯呑みの燗を両手で包んで、めずらしく、しばらく、寒いと言わなかった。
表は、雪。
囲炉裏の火が、時々、はぜる。
巻は、まだ、始まったばかりである。




