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創作能楽小説『黒椿歌仙』 連句の巻  作者: 堀吉 蔵人


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2/13

二 発句 ――旅に病んで夢は枯野をかけ廻る


 戸を、叩く音がした。


 二度。

 間があって、もう一度。

 雪を分けてきた者の、遠慮と、疲れの混じった叩き方である。


 センセが、亭主の顔で——生涯で初めて拵えた顔である——戸を開けた。


 客は、旅装であった。

 饅頭笠に、雪。墨染の袖に、雪。

 痩せた、小さい、年寄りである。よほど長く歩いてきたと見えて、足元だけが、妙にしっかりしている。歩くことが体の癖になった者の足である。


「……道に、迷いまして」


 と客は言うた。


「枯野を歩いておりましたら、灯が見えました」


「よ、ようこそ」


 とセンセは言うた。迷ったにしては、まっすぐ来た足跡が、戸口から枯野の果てまで、一筋に伸びていた。センセは、それに気づいたが、言わなかった。言わない、ということを、この晩のセンセは、生涯ぶんやることになる。


 客は、笠の雪を落とし、円座に通された。

 火のいちばん近くの席である。

 勝手から、湯が出た。無口な大男が、過不足のない熱さに付けた湯である。客は押しいただいて、両手で包み、長いこと、湯気だけを飲んでいた。


 囲炉裏(いろり)の火が、客の顔を照らした。

 日に焼けて、皺の深い、どこにでもいる年寄りの顔である。

 ただ、目だけが、まだ旅の途中であった。体は火の前にいて、目だけが、まだ枯野のどこかを歩いている。

 どこかで見た顔じゃ、とセンセは思うた。どこかで、どころではない気もした。蔵書のどこかの、口絵のどこかの——出てこなかった。センセの頭は、こういう晩に限って、肝心の一冊が奥に埋まる。


 客のほうが、文台に気づいた。


「……お座敷を、なさる」


 言うてから、客は、文台の前の執筆を見た。

 筆を構えているのが童女であることに、客は、何も言わなかった。

 旅の人は、道連れを選ばぬものである。


「く、客を、待っておりました」


 とセンセは言うた。文の口上を、そのまま使うた。


「発句を、いただけますかな」


 客は、しばらく、黙った。

 それから、湯呑みを置いて、少し笑うた。笑うと、旅の目が、すこしだけ、火の前に帰ってきた。


「わたくしの発句は、もう、済んだ身でして」


「では——」とセンセは言うた。何を言うべきか分からぬまま口が動いて、存外、良いことを言うた。「済んだ句を、ひとつ、お貸し願えれば」


 済んだ句、という言い方に、客は、また少し笑うた。

 それから、居住まいを直した。

 旅装のまま、笠だけ脇に置いた正座である。座敷の作法ではない。旅の作法である。この人は、句を詠むときも、旅装なのである。


 客は、目を閉じた。


 庵の内が、静かになった。

 炭のはぜる音が、一度。

 表の雪の、無いという音。


 客は、目を閉じたまま、言うた。


「——旅に病んで」


 執筆の筆が、下りた。


「夢は枯野を、かけ廻る」


 筆が、走った。

 墨の音だけが、句のあとを、ついていった。


 書き終えて、執筆が顔を上げると、客は、文台の上の一行を、遠くのものを見る目で、見ていた。


「……人の筆で見ると、ひとの句のようだ」


 と客は言うた。


「よい句ですな」


 と、ひとの句を褒める言い方で、言うた。

 センセは、喉まで出かかった何冊ぶんかの言葉を、ぜんぶ、飲んだ。


 それから客は、湯を飲み干し、笠を取って、立った。


「お暇します。……先を、急ぎますので」


 どこへ、とは誰も問わなかった。

 この雪の枯野に、急ぐ先のある旅人は、ひとりしかいない。


 戸口で、客は一度だけ振り返って、文台を——文台の前の執筆を、見た。


「巻の果てが、楽しみですな」


 それだけ言うて、雪の中へ出ていった。


 足跡は、枯野の果てへ、一筋。

 来た足跡と、寸分、重なっていた。


 センセが、戸を閉めた。

 閉めてから、戸に手を突いたまま、しばらく、動かなかった。


 文台の料紙に、一行。


 ——旅に病んで夢は枯野をかけ廻る


 名は、記されなかった。

 記すまでもない句、というものが、世にはある。


 発句が、立った。

 三十五句が、この先にある。

 雪は、まだ、降っている。

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