二 発句 ――旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
戸を、叩く音がした。
二度。
間があって、もう一度。
雪を分けてきた者の、遠慮と、疲れの混じった叩き方である。
センセが、亭主の顔で——生涯で初めて拵えた顔である——戸を開けた。
客は、旅装であった。
饅頭笠に、雪。墨染の袖に、雪。
痩せた、小さい、年寄りである。よほど長く歩いてきたと見えて、足元だけが、妙にしっかりしている。歩くことが体の癖になった者の足である。
「……道に、迷いまして」
と客は言うた。
「枯野を歩いておりましたら、灯が見えました」
「よ、ようこそ」
とセンセは言うた。迷ったにしては、まっすぐ来た足跡が、戸口から枯野の果てまで、一筋に伸びていた。センセは、それに気づいたが、言わなかった。言わない、ということを、この晩のセンセは、生涯ぶんやることになる。
客は、笠の雪を落とし、円座に通された。
火のいちばん近くの席である。
勝手から、湯が出た。無口な大男が、過不足のない熱さに付けた湯である。客は押しいただいて、両手で包み、長いこと、湯気だけを飲んでいた。
囲炉裏の火が、客の顔を照らした。
日に焼けて、皺の深い、どこにでもいる年寄りの顔である。
ただ、目だけが、まだ旅の途中であった。体は火の前にいて、目だけが、まだ枯野のどこかを歩いている。
どこかで見た顔じゃ、とセンセは思うた。どこかで、どころではない気もした。蔵書のどこかの、口絵のどこかの——出てこなかった。センセの頭は、こういう晩に限って、肝心の一冊が奥に埋まる。
客のほうが、文台に気づいた。
「……お座敷を、なさる」
言うてから、客は、文台の前の執筆を見た。
筆を構えているのが童女であることに、客は、何も言わなかった。
旅の人は、道連れを選ばぬものである。
「く、客を、待っておりました」
とセンセは言うた。文の口上を、そのまま使うた。
「発句を、いただけますかな」
客は、しばらく、黙った。
それから、湯呑みを置いて、少し笑うた。笑うと、旅の目が、すこしだけ、火の前に帰ってきた。
「わたくしの発句は、もう、済んだ身でして」
「では——」とセンセは言うた。何を言うべきか分からぬまま口が動いて、存外、良いことを言うた。「済んだ句を、ひとつ、お貸し願えれば」
済んだ句、という言い方に、客は、また少し笑うた。
それから、居住まいを直した。
旅装のまま、笠だけ脇に置いた正座である。座敷の作法ではない。旅の作法である。この人は、句を詠むときも、旅装なのである。
客は、目を閉じた。
庵の内が、静かになった。
炭のはぜる音が、一度。
表の雪の、無いという音。
客は、目を閉じたまま、言うた。
「——旅に病んで」
執筆の筆が、下りた。
「夢は枯野を、かけ廻る」
筆が、走った。
墨の音だけが、句のあとを、ついていった。
書き終えて、執筆が顔を上げると、客は、文台の上の一行を、遠くのものを見る目で、見ていた。
「……人の筆で見ると、ひとの句のようだ」
と客は言うた。
「よい句ですな」
と、ひとの句を褒める言い方で、言うた。
センセは、喉まで出かかった何冊ぶんかの言葉を、ぜんぶ、飲んだ。
それから客は、湯を飲み干し、笠を取って、立った。
「お暇します。……先を、急ぎますので」
どこへ、とは誰も問わなかった。
この雪の枯野に、急ぐ先のある旅人は、ひとりしかいない。
戸口で、客は一度だけ振り返って、文台を——文台の前の執筆を、見た。
「巻の果てが、楽しみですな」
それだけ言うて、雪の中へ出ていった。
足跡は、枯野の果てへ、一筋。
来た足跡と、寸分、重なっていた。
センセが、戸を閉めた。
閉めてから、戸に手を突いたまま、しばらく、動かなかった。
文台の料紙に、一行。
——旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
名は、記されなかった。
記すまでもない句、というものが、世にはある。
発句が、立った。
三十五句が、この先にある。
雪は、まだ、降っている。




