一 翁 ――発句は、客じゃ
枯野の果てに、庵がひとつある。
センセの庵である。
庵というより、書物の山に屋根を掛けたものである。壁は書棚、床も書物、囲炉裏の回りだけが、かろうじて人の住まいになっている。
主は、頼まれておらぬ原稿を書いて暮らしている。誰に頼まれたのでもない注釈、誰も読まぬ考証、後の世で読まれる、が口癖である。
雪の朝、その庵に、文が一通、届いていた。
誰が届けたのか、足跡はない。
戸の内の、文台の上に、白い巻き文がひとつ、載っていた。文台など、ゆうべまで、そこに無かった。
上等の料紙が一束と、筆が一本、添えてある。
筆の軸が、黒い。漆ではない。木のままで黒い。椿の木は、こんな艶に磨けるものだったか。
センセは、巻き文を解いた。
〽とうとうたらりたらりら
たらりあがりららりどう
〽——と、連なるは言の葉の
前に付きつつ前を去り
めぐりめぐりて三十六
果てはいづくに帰るらん
〽野辺の雪をも料紙をも
いまだ書かれぬ白と見て
書かれて後もなほ白き
白のありやと巻いてみん
署名は、ない。
ただ、文の末尾に、一行。
——発句は、客じゃ。
センセは、長いこと、文を眺めた。
眺めて、それから、誰にともなく言うた。
「……わしは、頼んでおらんぞ」
頼んでおらぬ原稿を三十年書いてきた男が、初めて、頼んでおらぬ依頼を受け取ったのである。
断る筋合いは、いくらもあった。
センセは、断らなかった。文台を囲炉裏の脇に据え、料紙を整え、それから急に慌ただしく、庵の書物の山を片づけはじめた。客座敷ひとつぶん、書物を除けるのに、昼までかかった。
晩に、いつもの顔ぶれが集まった。
酌をさせたら右に出る者のない女。
寒い寒いと言うている爺。
無口な、福々しい大男——これは来るなり勝手に立って、燗の支度を始めた。
「巻をやる」とセンセが言うた。「客が来る。誰かは、知らん」
誰も、深くは問わなかった。この顔ぶれは、深く問わないことにかけては年季が入っている。
それから、もうひとり。
いつからか、囲炉裏の向こうに、少女がひとり、座っていた。
十かそこらの、どこの子とも知れぬ女児である。
誰も、来るところを見ていない。
少女は、文台の黒軸の筆を、当たり前のように取り、執筆の席に膝を進めた。
筆が、手に大きい。大きいのに、構えると、様になった。
センセは、何か言いかけて——執筆どのは、と役を問いかけて——やめた。
筆は、もう、その手に馴染んでいた。問うだけ野暮という馴染み方であった。
客の円座が、火のいちばん近くに据えられた。
燗が、静かに付いていく。
表は、雪。
料紙が、白い。




