六 小町 ――面影は問はず照らすや冬の月
戸を、叩く音がした。
——気がした。
風かとも思われる、弱い音である。二度目で、ようやく、人と知れた。
長いこと、叩いても開けてもらえぬ戸ばかり叩いてきた者の、音であった。
センセが開けると、雪の中に、襤褸をまとった老婆が立っていた。
腰は曲がり、髪は白く、笠もなく、蓑の破れ目に雪が溜まっている。
物乞いの婆と、誰が見ても言うたであろう。
言わなかったのは、その立ち姿である。腰は曲がっているのに、立ち姿の芯が、どこか、まっすぐであった。昔、山ほどの人に見られて立った者の、体の癖である。
「……火の匂いがしたんでね」
と老婆は言うた。
勝手から、無口な大男が、真っ先に動いた。
円座を火の際まで寄せ、いちばん熱い燗を付け、湯気の立つのを、黙って、婆の手に包ませた。
戸を閉められ続けてきた者に、この庵の戸は、いちばん大きく開くのである。
婆は、燗を両手で抱えて、ほう、と息を吐いた。
「……いい家だ。歌の座かい」
「俳諧ですが」とセンセ。「お分かりですか」
「歌なら、ちっとはね」
ちっとは、と婆は言うた。センセの喉が、ごくりと鳴った。
蔵書のどの一冊が浮かんだのか、今度は、すぐに出たらしい。出たが、口には出さず、代わりに、おそるおそる、聞いた。
「……つかぬことを伺うが。深草の少将の話は、まことで」
「どの話だい」
「百夜、通うた、という」
「ああ、それかい」婆は燗をすすった。「まことだよ。まことでないよ。九十九夜で死んだとも言うし、百夜目に来なかったとも言うし、そもそも少将なんぞ居なかったとも言う。——ぜんぶ、あたしの話でね。ぜんぶ、あたしじゃない」
「どれが、まことです」
「さあねえ」
婆は、こともなげに言うた。
「話が、多すぎてね。あたしの上に、あたしの話が、千年ぶん積もった。掘ったって、下のあたしは、もう出てこないよ。……雪とおんなじさ」
文台の前の童女に、婆は目を留めた。
長いこと、見た。
「……あたしにも、そんな時分が、あったはずなんだけどねえ。それも、話の下だ。どの話が、ほんとの子供の頃だったか、忘れちまった」
囲炉裏の端で、爺が、ぽつりと言うた。
「……姉さんとは、野宿で、よく一緒になったよ」
婆が、爺を見た。
「月のいい晩はね、姉さん、歌を詠んでた。誰も聞いてないのに、いい声でね。……どんな歌だったか。いい歌だった、ってことしか、覚えてないんだが」
「……あんた」と婆は、爺をじっと見た。「どこかで」
「さあ。どこにでも、居たからねえ」
それきり、二人とも、燗に戻った。
千年ぶんの話の、どの下にも埋もれなかった歌が、いま、覚えてない、の一言の中にだけある——そういう勘定になることを、勘定した者は、座にいなかった。
「五句目を、お願いします」とセンセが言うた。「月の座です。月を、詠み込んでいただく」
「月かい」
婆は、戸の方を見た。閉まった戸の向こうの、雪雲の上の月を見る目であった。
「文台のは……帰らぬ舟を、待つ人。……待つ人の句かい。あたしは、待たせた側でね」
誰も、何も言わなかった。
婆は、燗を置いて、曲がった背のまま、目を閉じた。
「——面影は問はず照らすや冬の月」
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
待つ人の上にも、待たせた婆の上にも、月は、誰の面影も問わずに照る。
昔の顔も、話の下の顔も、詮索しない。いま、そこにいる者を、照らすだけである。
「……月ってのは、ありがたいよ」
と婆は言うた。
「千年、あたしの話をしなかったのは、月だけだ」
婆は、燗を飲み干して、立った。
「月の出てるうちに、行くよ。夜道は、月が連れだから」
戸口で、婆は、蓑の雪を払いもせず、童女の執筆に、皺の中から、にっと笑うてみせた。
「いい字だ。……あんたの字は、話より長生きしな」
雪の中へ、出ていった。
雲が切れたか、表が、すこし、明るかった。
文台の上に、句が、五つ。
——面影は問はず照らすや冬の月
問われずに照らされる、ということが、どれほどの手柄か。
千年、問われ続けた人だけが、知っている。




