十九 道真 ――餞の遅きも嬉し梅は実に
遠くで、雷が、ひとつ鳴った。
春の雷である。座の何人かが、顔を上げた。
それから——戸が、叩かれた。
作法正しい、静かな音である。雷のあとに、こんなに行儀のよい音が続くとは、誰も思わない。
衣冠の老臣が、立っていた。
白いものの混じった鬚、深い目、袖に、梅の香。
立ち姿に、雷の気配は、もう、ない。学問所の廊下を歩いてきたような、静かな佇まいである。
円座に通されて、老臣は、座る前に、止まった。
円座のかたわらに、梅が、一枝、活けてある。
老臣は、それを、長いこと、見た。
「……これは」
「勝手の者が」とセンセが言うた。「今宵、誰ぞ見えるようだと、活けておりまして」
老臣は、勝手の大男の方を、見た。
大男は、燗を付けながら、顔も上げなかった。
老臣は、それ以上何も言わず、梅のかたわらに、座った。座ってから、ひとつ、深い息をした。
「……わたしは、発つ時に、誰の見送りも、許されませんでした」
と、問われもせぬのに、言うた。
「夜明け前に、急き立てられて、家の者にも、ろくに。……別れを言えたのは、庭の梅に、だけです。人には、言わせてもらえなかった」
文台の巻を、老臣は読んだ。
十七句目のところで、目が、止まった。
——旅の餞鶴と亀とを。
「……餞、を」
老臣は、その一句を、二度、読んだ。
「わたしは、餞を、もらいそこねた側でしてな。……九百年遅れの膳に、あずかることになるとは」
誰も、何も言わなかった。大男の燗だけが、静かに、老臣の前に、据えられた。
さて、ここで、センセの番であった。
胃の痛い方の、番である。
「じ、実は。恐れながら。当座には、式目が、ございまして。は——」
センセは、生涯分の覚悟で、言うた。
「——花の一字は、定座と申す席に、取ってございます。ゆえに。その。お使いに、なれません」
座が、凍った。
東風吹かば、の御方に、花のご法度である。雷が、もう一度鳴っても、誰も驚かなかったであろう。
老臣は、しばらく、黙った。
それから、言うた。
「——式目、と申したか」
「は、はい」
「見せよ」
目が、光っていた。怒りの光では、ない。
学者の光であった。
それからの半刻は、この庵はじまって以来の、奇観であった。
センセが連歌書の山を運び、老臣が繰り、二人して、定座だの、去嫌だの、句数だのと、額を寄せて論じ合うたのである。書物の神格と、学問の神様の、学術の宴である。センセの生涯で、いちばん幸福な半刻であったことは、言うまでもない。
繰り終えて、老臣は、書物を閉じた。
「……良い定めだ」
と言うた。
「花に、席を、取ってある。誰にも勝手に詠ませず、いちばん良い場所を、空けて、待たせてある。——花を、粗末にせぬ座だ」
老臣は、かたわらの梅を、見た。
「席を取っておけば、花は、来ます。……わたしの梅も、あの庭から、席を立って、配所まで、追ってまいりましたのでな。花とは、そういうものです」
飛梅の御本人が言うのだから、これ以上の式目の裏書きは、ない。センセは、感涙で書物を濡らしかけて、女に取り上げられた。
燗が回って、老臣は、ぽつりと言うた。
「天神、と呼ばれております。試験の願いを、日に幾万と、聞く身です。……梅の歌は、誰もが知っている。なれど、配所で書いた詩は」
老臣は、盃を見た。
「——誰も、読まぬ。神になると、人であった頃の書き物は、読まれなくなるものです」
「読んでおります」
と、センセが言うた。
考える前に、出た声であった。
「配所の御詩集、読んでおります。門を出でず、も。……よい詩で、ございました」
老臣は、動かなかった。
長い、長い沈黙があった。梅の香だけが、座にあった。
「……そうか」
と、老臣は言うた。
「……読む者が、おったか」
それだけ言うて、盃を、ゆっくり、干した。
九百年の何かが、その一杯で、腑に落ちていくようであった。
「十八句目を」と、女が、頃合いを見て、静かに言うた。「春の折の、詰めでございます」
老臣は、頷いて、文台に向き直った。
花は、使えない。
使えないままで、詠まねばならない。
老臣は、かたわらの梅を、もう一度、見た。見て、すこし、笑うた。答案の見えた者の笑い方であった。
「——餞の遅きも嬉し梅は実に」
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
センセが、文台に飛びついた。
「……梅は、実に。……梅の実は——夏! 夏の季でございます! 花を使わず、花の先へ……花の咲いた後の、実へ抜けおった! ご法度を、守るのではなく——追い越して……!」
九百年遅れの餞を、遅きも嬉し、と受けた。
そして、別れを言うた花は、九百年のあいだに、実になっていた、と付けた。
怨みが天神になったように、花は実になる。遅れて届くものは、届くまでのあいだに、育っているのである。
老臣は、立った。
戸口で、梅の一枝に、目礼をした。
「戻ります。……願いを、聞かねばならぬ身ですので。春は、試験の季節ゆえ」
戸が開いて、梅の香が、すこし、表へ流れた。
遠くで、雷が、もうひとつ——今度は、ずいぶん優しく——鳴った。
文台の上に、句が、十八。
——餞の遅きも嬉し梅は実に
春の折が、果てた。
巻は、半分である。
表の夜気が、いつのまにか、ぬるい。梅の実の季が、もう、そこまで来ている。
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