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創作能楽小説『黒椿歌仙』 連句の巻  作者: 堀吉 蔵人


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二十 夏の発句 ――やれ打つな蠅が手をすり足をする

切の句の通りに、なった。


 梅は実に、と書かれてから、表は、みるみる、青くなった。

 枯野だったところに、丈の高い草が立ち、水の音が太くなり、軒下に、燕が入った。

 戸は、開け放したままである。夏は、閉める理由が、ない。


 そして、蠅が、出た。


 夏の座敷の、当たり前の客である。文台のまわりを、ぶんと一巡りして、センセの書見の鼻先に、止まった。


「おのれ」


 センセが、反古を丸めて、振りかぶった、その時である。


「——やれ、打ちなさるな」


 戸口に、小柄な爺さまが立っていた。


 日に焼けて、欠けた歯で笑うて、着たきりの単衣に、荷物らしい荷物もない。

 いつから居たのか、叩いた音を、誰も聞いていなかった。叩く前に、蠅の危機を見つけて、声のほうが先に入ってきたのである。


「見なされ。手ぇすって、足すって、あやまっておりますがな。あやまっとるもんを、打つ法はねえでしょう」


 振りかぶったセンセの手から、力が抜けた。

 蠅は、知ってか知らずか、前肢を、すりすりと、すっている。


「……あやまっておるように、見えんこともない」


「見えるとも。世の中の弱いもんは、みんな、ああやって、あやまりながら生きとるだで」


 爺さまは、遠慮なく上がり込んで、円座に、ちょこんと座った。座り方が、小さかった。小さく座る稽古を、生涯ぶん積んだ座り方であった。


 燗が出た。爺さまは、押しいただいて、うまそうに飲んだ。


 そして、囲炉裏の端の、もうひとりの爺と、目が合うた。


 寒がりの爺と、日焼けの爺さまは、しばらく、互いを、見た。


「……おや。おめさま、どっかで」


「……ああ」と、寒がりの爺が、湯呑みの陰で言うた。「あんたの家に、長いこと、居たよ」


 座が、静まった。


「北の、雪の深い在所の。……蔵の隅とか、竈の裏とかに。……長いこと」


 爺さまは、まじまじと、寒がりの爺を見た。

 それから——笑うた。欠けた歯を全部見せて、膝を叩いて、笑うた。


「道理で! 道理で、貧乏だったわけだ!」


 笑い事では、ないのである。継母に出され、十五で江戸へ売られ、遺産の争いに十二年、女房子供に先立たれ、仕舞いには家まで焼けた人の、その家に、貧乏の神が長逗留していたという話である。

 笑い事ではないのに、爺さまは、笑うのである。


「……悪かったねえ」


 と、寒がりの爺が、ぽつりと言うた。

 この爺が詫びを言うたのを、座は、初めて聞いた。


「なんの、なんの」爺さまは、手を振った。「おかげで、句が、二万も出来ただ。貧乏してなきゃ、蠅だの蚤だの雀の子だのと、目も合わせずに死んどったわ。……あんた、居てくれたおかげで、おら、弱いもんの側に、居られただよ」


 寒がりの爺は、湯呑みの陰で、何か言いかけて、やめた。

 やめて、寒い、と言うた。

 夏である。誰も、咎めなかった。


 爺さまは、文台の巻を、ふんふんと読んだ。

 読み終えて、文台の前の童女に、目を細めた。


「……手ぇが、ちいせえなあ」


 と笑うた。笑うた尻尾が、すこしだけ、湿った。

 湿った分については、誰も、何も問わなかった。


「夏の発句を」とセンセが言うた。「済んだ句を、お貸し願えれば」


「済んだ句なら」と爺さまは、蠅のほうを、顎で指した。「いましがた、使うたばかりのが、ござらすよ」


 爺さまは、居住まいも直さず、湯呑みを持ったまま、詠んだ。


「——やれ打つな蠅が手をすり足をする」


 執筆の筆が、下りた。

 墨の音が、五七五のあとを、ついていった。


 名は、記されなかった。

 記すまでもない句、というものが、また、ひとつ。


「弱いもんの側から詠むとね」と爺さまは、誰にともなく言うた。「句は、なんぼでも出ますだ。世の中、弱いもんばっかりだで。……種が、尽きねえ」


 爺さまは、燗をもう一杯だけもらって、立った。


「柏原まで、ぼちぼち、帰ります」


 戸口で、振り返って、囲炉裏の端へ、欠けた歯で笑うた。


「あんたも、たまには、寄りなせえ。……蔵なら、まだ、焼け残っとるで」


 夏の日ざかりへ、爺さまは、出ていった。

 入れ替わりのように、文台の蠅が、ぶんと一巡りして、開いた戸から、表へ出ていった。

 蠅も、客だったのである。


 文台の上に、句が、十九。


 ——やれ打つな蠅が手をすり足をする


 夏の折が、開いた。

 詫びた神と、笑うた人と。

 この折は、弱いもんの側から、巻かれるらしい。

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