十 崇徳院 ――岩わりし水の末逢ふ雪解かな
戸は、叩かれなかった。
風が、叩いた。
一晩じゅう戸を鳴らしていた風が、ひときわ強く撓んで——戸が、内へ、開いた。
雪と風の渦の中に、人が立っていた。
古い装束である。色目は雅で、雅なまま、褪せている。
髪が、長い。結われずに、風に流れている。
爪が、長い。
そして目が——都なまりの声より先に、目が、悲しかった。
座の誰も、動けなかった。
動いたのは、勝手の大男である。
のっそりと戸口へ出て、風ごと客を招じ入れ、閂をかけ、火の際の円座を、手で示した。
招じ入れられた客のほうが、一瞬、たじろいだ。
客は、円座に着いた。着き方が、玉座の着き方であった。体が覚えていて、忘れられぬのである。
燗が出た。膳が出た。誰も何も問わぬうちに、過不足なく、出た。
客は、それを、長いこと、見ていた。
手を、出さなかった。
「……受け取って、よいのか」
と、客は言うた。
受け取ってよいのか、と膳に問う客を、この座は初めて見た。
「冷めますよ」
と女が言うた。それだけ言うた。
客は、盃を取った。
取って、飲んで、それから、堰が切れたように、ぽつり、ぽつりと、話した。
生まれた時から、囁かれていたこと。父と呼んだ人に、生涯、子と呼ばれなかったこと。
弟と、戦になったこと。負けて、海を渡されたこと。
そして——
「……都へ、経を送った。五部。この指で、三年かけて、写した。……罪を、濯ぐつもりであった。あれきり歌も捨てて、経ばかり、写した」
客は、自分の長い爪を、見た。
「——戻ってきた。封も、切られずに」
風が、戸を、がたりと鳴らした。
「読まれずに、戻された経を、朕は——私は、抱えて、それから」
それから、の先を、客は言わなかった。
言わなかった先のことは、この国の歴史が、ぜんぶ引き受けている。
座の誰も、身じろぎしなかった。爺だけが、湯呑みの陰で、ぽつりと言うた。
「……讃岐の冬は、寒かったねえ」
客が、爺を見た。
見て、何かを問いかけて、やめて、盃に戻った。
女が、徳利を置いて、居住まいを直した。
「——言伝を、預かっております」
客の肩が、揺れた。
「雅な、都なまりの、悲しい目の御方が見えたら、と。……義清が、白峯に参りました、と」
長い、長い沈黙があった。
風の音だけが、あった。
「……義清」
と、客は言うた。歌を確かめる声であった。
「……義清が。……あれは、北面の。若い、歌の上手い。……朕の百首にも、詠進した。……義清が、白峯に」
「参りました、と」
「いつ」
「さあ」と女は言うた。「この庵は、いつ、が、緩うございますから。——もう参ったのかも、これから参るのかも。ですが、参ることだけは、確かです」
客は、盃を置いて、両手を、膝に置いた。
爪の長い手が、膝の上で、静かになった。
受け取られなかった経の人が、いま、言伝をひとつ、受け取ったのである。
封も切らずに返される、ということのない場所で。
「九句目を」と、センセが、いつになく静かに言うた。「冬の折の、詰めでございます」
客は、文台の巻を、初めから、読んだ。
枯野の句。囲炉裏火の句。朽ちた船。待つ人。問わぬ月。寒がる月。指折る望の日。祝いの膳。
読み終えて、客は、目を閉じた。
「……歌は、捨てたのだが」
と言うた。言うてから、少し笑うた。笑うと、目の悲しさが、すこしだけ、若くなった。
「捨てた場所より、上流で詠むぶんには、よかろう」
客は、目を閉じたまま、詠んだ。
「——岩わりし水の末逢ふ雪解かな」
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
岩に裂かれた流れは、末で、逢う。
凍って割れた水は、雪解に、ひとつに帰る。
瀬を早み、と詠んだ人の、それは五百年目の下の句であった。十七文字の器で詠まれた、三十一文字の続きであった。
客は、書かれた句の、墨の乾くのを、見ていた。
「……墨は、よい」
と言うた。
「乾いても、黒いままだ」
何と比べて言うたのかは、誰も、問わなかった。
客は、立った。
戸口で、長い髪を手で押さえ、振り返った。
「白峯へ、帰る」
と言うた。それから、生涯でいちばん妙なことを言う顔で、言うた。
「——客が、来るのでな。……迎える支度が、ある」
戸が開いて、風と雪が渦を巻いて、客は、その中へ、消えた。
戸が閉まると——風が、凪いでいた。
一晩吹き荒れた風が、嘘のように落ちて、表は、静かな、まっすぐな雪に戻っていた。
文台の上に、句が、九つ。
——岩わりし水の末逢ふ雪解かな
冬の折が、果てた。
裂かれたものは、末で逢う。
戸を閉められた人が、戸を開けて、客を待つ側になった。
雪解には、まだ間があるが、句の中では、もう、水が動いている。




