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創作能楽小説『黒椿歌仙』 連句の巻  作者: 堀吉 蔵人


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十一 春の発句 ――菜の花や月は東に日は西に

切の句の通りに、なった。


 岩わりし水の末逢ふ雪解かな——と書かれた晩から、表の雪が、ゆるみはじめたのである。

 軒の雫が夜通し鳴り、枯野の雪は日ごとに痩せ、水の流れる音が、庵のまわりに、幾筋も生まれた。

 巻が季を進めると、表も進む。

 誰も、そのことを口にしなかった。口にすると、崩れそうな道理というものが、世にはある。


 夕刻、戸は、開け放してあった。

 冬のあいだ閉て切っていた戸を、開けたままにしておける——それだけのことが、春である。


 戸を、叩く音が——なかなか、しなかった。


 人の気配は、表に、あるのである。あるのに、叩かない。

 しびれを切らしたセンセが顔を出すと、ふくよかな中年の男が、戸口の前に突っ立って、西の空を眺めていた。


「や。これは失礼」


 と男は言うた。


「表の景色に、見とれておりまして。……日の沈みぎわと、月の出ばなが、ちょうど、釣り合う頃合いで。ああいうのは、見られる時に見ておきませんと」


 男は、絵具の匂いがした。

 腰に矢立、懐に小さな画帖。旅装は軽く、足取りはのんびりして、目だけが、休みなく働いていた。見る、が生業の目である。


 円座に着くと、男は、断ってから画帖を開き、火の際の座をさらさらと写しはじめた。

 燗を含み、手を動かし、また含む。絵と酒が、同じ速さで進んだ。


「よい座敷だ。……ときに、ここは、どこの在で?」


「枯野の果て、としか」とセンセが言うた。


「……どこでもない場所は、よい」


 と男は、画帖から目を上げずに言うた。


「どこへも、帰らずに、済む」


 帰らずに済む、をよろこぶ言い方が、すこし、妙であった。誰も、突かなかった。


 文台の巻を、男は、絵を見る目で読んだ。


「冬の折が、果てましたか。……して、春の発句を、わたくしに」


「済んだ句を、お貸し願えれば」


 とセンセが言うた。二度目ともなると、口上も板についている。


「済んだ句なら、山ほど」


 と男は笑うて、開いた戸の外を、見た。


 西に、沈みかけの日。

 東に、昇りかけの月。

 雪の痩せた野が、その両方に、うすく照らされている。


「……ちょうど、持ち合わせが、ございます」


 男は、画帖を閉じ、戸の外へ向かって、詠んだ。


「——菜の花や月は東に日は西に」


 執筆の筆が、下りた。

 墨の音が、五七五のあとを、ついていった。


 書き終えた一行を、男は、覗き込んだ。


「……絵に、月と日を、両方入れるのは、難しいのです。どちらかが、嘘になる。……句なら、入る。だから、わたくしは、句も、やるのです」


 画俳二道、と人の言う道の、種明かしとしては、あっけないほどのものであった。あっけない種明かしほど、ほんとうである。


 男は、描き上げた座敷の絵を、画帖から切り離して、文台の脇に置いた。


「お座敷の、お礼に」


 絵の中では、囲炉裏の火が真ん中にあって、みなの顔は、案外、そっけなく描かれていた。

 そのかわり、文台の前の童女の筆だけが、妙に、大きく、丁寧に描かれていた。

 見る、が生業の目は、この座敷で何がいちばん大きいかを、見て取ったのである。


「や、日のあるうちに、もう少し、外を歩きます」


 と男は立った。


「春は、見るものが多くて、忙しい」


 開いた戸から、男は、日と月の間へ、ぶらぶらと歩み去った。


 その晩のことである。

 燗の帰りに表へ出た女が、おや、と言うた。

 雪の退いた枯野の黒い土に、ぽつり、ぽつりと、黄色いものが点りはじめていた。


 巻が季を進めると、表も進む。

 誰も、口にしなかった。


 文台の上に、句が、十。


 ——菜の花や月は東に日は西に


 春の折が、開いた。

 名は、記されなかった。

 記すまでもない句、というものが、また、ひとつ。

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