第09話【船を持たない人の席】
ベルク港の小船主組合は、王妃府主宰の公開影響聴聞儀の傍聴席から排除され、門前で請願書を掲げていた。
第十一日の休務を終えた翌朝。第十二日、条約交渉の国内への影響を測る公開聴聞が、王宮の大広間で開かれようとしていた。
議長席には、新正妃リュシアが座っている。彼女の後方には、陪席者として教導官エレオノーラと、記録担当の補佐官イネスが控えていた。
広間の外から、重い扉越しに怒声を伴う抗議の声が響いてくる。それは、今回の十年優先運営権によって最も大きな被害を受けるであろう、ベルク港周辺の小船主たちだった。
「招待名簿にない者を、一度に入れるわけにはいきません。衛兵に下がらせましょう」
外交局の官僚が、忌々しげに顔をしかめて言った。
「本日は投資計画の説明だけで時間が埋まっております。請願書は受け取りましたし、地方業者の意見は書面で後から確認すればよいのではありませんか」
官僚の言葉に、リュシアはきつく唇を噛んだ。
彼女はガルドから、独占条約が結ばれなければ故郷への支援を縮小すると脅されている。彼らの機嫌を損ねるわけにはいかないという重圧が、リュシアの肩にのしかかっていた。
エレオノーラは議長席の背後から、静かに声を落とした。
「リュシア様。会議の結論は、始まる前の『場の設計』によってあらかじめ決まります。都合の悪い者の席を初めから用意しなければ、その会議には偏った意見しか残りません」
「……ですが、彼らを中に入れれば、官僚たちの言う通り会議が紛糾しますわ」
「参考人を召致し、発言の許可を与える権限は、国王の部下たちではなく、この聴聞の議長であるあなたにあります」
エレオノーラはそう言い、手元の書類を一枚、リュシアの前に滑らせた。
それはエレオノーラが事前に作成した、議事進行案だった。ラディア商人組合、アルデインの官僚、他国の外交官、そして国内の小船主たち。それぞれ相反する利害を持つ者たちに、同じ長さの発言時間と確認の時間が割り振られている。
「私には、彼らを救うために発言する権限はありません。議長の代行もできません。ですが、この公平な進行案を用いるかどうかは、議長であるあなたの権限で選べます」
エレオノーラは自分自身が前に出て、弱き者を庇う英雄になる気はなかった。それではリュシアがいつまでも「教導官に守られたお飾り」のままで終わってしまう。
リュシアはエレオノーラの用意した進行案と、門外から響く怒声を交互に見やり、やがて顔を上げた。
「扉を開けなさい」
議長たる新正妃の凛とした声が、広間に響いた。
官僚たちが慌てて振り返る。
「リュシア殿下!? しかし、それではガルド殿の心証が……」
「この聴聞儀の議長はわたくしです。特定の組合の利益だけでなく、国の端で生きる者たちの声を聞くことも、王妃府の公務です。彼ら小船主組合の代表に、参考人としての席を用意しなさい」
衛兵が重い扉を開け、潮風の染み付いた粗末な服を着た数名の男たちが、おずおずと、だが強い決意を秘めた目で広間に入ってきた。
彼らが証言台に立ち、震える声で語り始めたのは、机上の空論ではない『生きた数字』だった。
深水の岸壁を外国の組合に十年間独占されれば、自分たちは喫水の浅い川筋に追いやられる。荷下ろしにかかる日数は倍に伸び、地方への物資の運送費は三倍に跳ね上がる。それは、ベルク港周辺だけでなく、内陸の庶民の冬の生活を直撃する死活問題だった。
リュシアは、手元のメモにその数値を懸命に書き留めた。彼女は故郷を救いたいと願っていたが、それがアルデインの民をこれほどまでに苦しめる結果に繋がるとは、具体的な数字を聞くまで理解していなかったのだ。
「……見事な議事進行だ」
円卓の端から、静かな賛同の声が上がった。
ノルテ公国の特命外交官、アドリアン・フェルスだった。彼は黒褐色の髪を揺らし、まっすぐに議長席を見た。
「我がノルテ公国も、この港湾の独占には懸念を示している。だがそれ以上に、アルデイン国内の小船主たちに発言の席が与えられ、不利益の構造が可視化されたこの手続きの公平性を、深く支持する」
彼は自国の利益だけを主張するのではなく、小船主たちが席を得た『場の公平さ』そのものを評価した。
エレオノーラは陪席の席から、彼の横顔を見つめた。二人は言葉一つ交わさないが、彼が正しい手続きの価値を正確に理解してくれていることが、何よりも誇らしかった。
一方、小船主たちの証言を書き留めるため、補佐官のイネスは凄まじい速度でペンを走らせていた。
発言の要旨、誰が何を要求し、どのような数字が提示されたのか。かつての正妃時代、エレオノーラが一人で徹夜をして整理していた膨大な情報を、イネスは必死に食らいつきながら公式な議事録として形にしていく。
休憩に入ると、セシルがエレオノーラの席へ歩み寄った。
「記録と照合を、あの人数で回させていたのだな。増員を後回しにしてきた私の責任だ」
彼は補佐当番の再配分案を示し、正規人員を増やす起案も財務へ出すと告げた。
エレオノーラは手元の担当表を見た。自分がいなくなった後にも、この配置が残ることを願った。
だが、聴聞が小船主たちの切実な声に傾きかけたその時だった。
最前列に座っていたラディア商人組合の長、ガルド・ロヴィエが、苛立たしげに立ち上がった。
上質な絹の服を着た五十代の男は、周囲の小船主たちを虫けらでも見るような目で見下ろし、そして議長席のリュシアに向かって、威圧的に言い放った。
「岸壁の改修費は、誰が先に負担するのでしょう。短い期間で権利を失うなら、融資団も金を出せません。議長殿にお伝えしておく。我々は、ラディアの商人全員を代表する存在だ。我々がベルク港の深水岸壁を十年間、優先使用する権利。それが認められなければ、予定していた投資は行えない。以上です」
エレオノーラには、故郷への支援金も縮小せざるを得ないと書かれた、あの私信を思い出させる言い方に聞こえた。リュシアの指が、膝の上で固く握られている。
広間が静まり返る。官僚たちは顔色を失い、小船主たちは絶望に唇を噛んだ。
エレオノーラは口を挟まない。ここでリュシアが屈すれば、彼女は一生この大商人に操られる人形となる。
数秒の重い沈黙の後。
リュシアは顔を上げ、琥珀色の瞳で真っ直ぐにガルドを睨み返した。
「……記録係。ただ今の発言を書き留めましたか」
リュシアの声は、かすかだが芯のある響きを持っていた。
驚いたように顔を上げたイネスに対し、新正妃ははっきりと命じた。
「『我々はラディアの商人全員を代表する』。その言葉を、一字一句違わず、この影響聴聞儀の公的議事録に残しなさい」
「は、はいっ!」
イネスが勢いよくペンを走らせる。
ガルドは眉をひそめたが、言葉を撤回しなかった。
「主要な航路も送金も、現に我々が支えている。その事実は変わりません」
エレオノーラは記録の『全員』という文字に目を留めた。大きな取引網を持つことと、全商人から委任を受けていることは同じではない。リュシアが使節へ出した照会の答えを、確かめる必要があった。




