第10話【十年ではなく、二つの冬】
輸送費表の端には、何度も計算し直した跡が残っていた。
第十三日の朝。教導室の机の上に置かれた数枚の羊皮紙には、細かな数字がびっしりと書き込まれていた。
前日、王妃府主宰の公開影響聴聞儀において、ラディア商人組合の長であるガルドは十年の優先使用権が認められなければ、予定していた投資は行えないと宣言した。リュシアには、私信で示された故郷への支援縮小も、遠い話ではなくなったはずだ。
だが、リュシアの顔に、昨日までの怯えはなかった。目の下には薄く隈ができているが、その琥珀色の瞳は確かな熱を帯びている。
「小船主たちから提出された資料を基に、ガルド組合長の十年独占案が通った場合の、地方への輸送費の高騰率を計算しました」
リュシアが指し示した数字は、絶望的なものだった。
深水岸壁をラディア商人組合の大型船が独占すれば、アルデインの地方小船主は不便な浅瀬の荷役場を使わざるを得ない。荷下ろしの効率は劇的に落ち、その遅延はそのまま地方の民が負担する物価の引き上げに直結する。
「このままでは、ベルク港周辺の民衆は冬を越せません。いくら故郷の村の復興が大事でも、そのためにアルデインの民を飢えさせるわけにはいかない」
「その通りです。では、議長であるあなたはどう答申されますか」
エレオノーラの問いに、リュシアは少しだけ言い淀んだ。
「……ガルド組合長が幹事となっている融資団と、国王陛下との間には、大口融資の『仮合意』があると聞いています。わたくしが独占に反対すれば、陛下が予定している冬の財源が白紙になってしまうのでは……」
「仮合意、ですね」
エレオノーラは手元にある公開資料の束から、融資関係の報告書を引き抜いた。
「リュシア様。その『仮合意』とやらには、国王陛下の正式な署名がありますか? そして、すでに一銀冠でも国庫に資金が振り込まれていますか?」
リュシアは報告書に目を落とした。そこには『条件交渉中』とあるだけで、署名済みの借款契約書も、融資団からの資金交付の記録も一切存在していなかった。
「……いいえ。まだ何の契約も結ばれておらず、お金も動いていません」
「ええ。融資の見込みはありますが、確定した財源ではありません。失えば代わりの資金を探す必要があります。それでも、その額面だけを恐れて、自国の民の首を絞めるような条約を丸呑みする必要はありません。『十年独占か、破談か』。商人が突きつける極端な二択に、そのまま乗る義務は我々にはないのです」
エレオノーラの言葉に、リュシアははっと息を呑んだ。
選択肢は、相手から与えられるものだけではない。自分たちで作ることもできるのだと。
リュシアは再び自作の輸送費表に目を落とし、やがて力強くペンを握った。
「十年の条件を、今の見積もりだけで固定するのは危険です。ならば……優先運営の試行を『二季』、この冬と次の冬までに区切ります。その間に投資の効果を港務局が査定し、問題があれば取り消せるようにする。そして、地方物流のための『小船枠の完全な保護』と、不当な値上げを防ぐ『価格の監督』を条件とします」
それは、ガルドの完全独占を退けつつ、当面の投資を呼び込むための、ギリギリの妥協点だった。
エレオノーラは内心で深く頷いた。教えられたことを反芻するだけでなく、自ら新しい枠組みを作り出したのだ。お飾り王妃になることを拒んだ彼女の、議長としての最初の決断だった。
「その期間で、大規模な岸壁工事の費用まで回収できるでしょうか」
「……できないかもしれません。ですから、初めは既存の岸壁で運用を試します。大きな改修の資金は、別に確保する必要があります」
リュシアは投資額の欄を見直し、即時に見込める額を削った。
「十年分の融資を、そのまま残せる案ではないのですね」
「はい。その不利益も添えて、議長答申としてまとめましょう」
エレオノーラは口出しをせず、ただ書式の整え方だけを助言した。
リュシアは自身のペンで『二季試行・小船枠保護・価格監督』の対案を書き上げ、羊皮紙の末尾に、アルデイン正妃としての署名を力強く記した。
この答申が外交局へ提出されれば、王が期待していた即時の巨額融資の見込みは大幅に下がる。王の不興を買うことは間違いない。だが、リュシアのペン先は一度も迷わなかった。
「……エレオノーラ様。わたくしは、あなたの言う通りにしたのではありません。わたくしが、わたくしの意志で、これが正しいと決めたのです」
署名を終えたリュシアが、挑戦的な、だがどこか誇らしげな視線を向けてくる。
エレオノーラは、ふっとかすかに微笑んだ。それは冷徹な教導官としてではなく、同じ王宮で生きる一人の女性としての笑みだった。
「存じております。リュシア様ご自身で選び取った責任です」
リュシアの提出した議長答申は、即座に外交局へ回された。
十年独占を前提としていた交渉の枠組みが、新正妃のたった一枚の答申によって根底から覆されたのだ。正式な国際交渉の発議は国王と外交局の権限であるが、公的な聴聞の結果を無視して王が十年独占を強行するには、議会にこの不利益を説明しなければならなくなった。
二日後。
教導室の机に、リュシアの対案に対する各国の公式な反応が届き始めた。
その中で、エレオノーラが最も注視していたのは、北方のノルテ公国からの回答書だった。
ノルテの特命外交官であるアドリアン・フェルスは、先の聴聞で小船主の参加を支持し、公正な手続きを重んじていた。彼ならば、リュシアの出した「二季試行と小船枠の保護」という妥協案に賛同し、交渉を円滑に進めてくれるのではないか。王宮の多くの者がそう期待していた。
だが、届いた文書に書かれていた内容は、その安易な期待を切り捨てるものだった。
『アルデイン新正妃殿下が提出された、地方物流の保護を目的とする対案の理念には、深く敬意を表する。しかしながら、二季の試行であっても、深水岸壁が制限される以上、我がノルテ公国の山越えルートによる輸送費負担は依然として過大である。本国財務当局の同意を得られないため、現行案のままでは賛同いたしかねる』
それは、明確な『異議申し立て』だった。
リュシアの案を横取りすることも、頭ごなしに否定することもない。作成者への敬意を明記した上で、自国の不利益という事実だけを理由に、理路整然と反論しているのだ。
「……厳しいお方ですね」
リュシアが文書を読んで、小さくため息をついた。
エレオノーラは、異議の添えられた条件をもう一度読んだ。賛同を期待していた分、厳しく感じる。だが、何を変えれば交渉を続けられるかは、明確に書かれていた。
「この条件に答えれば、話し合いを続けられます。まず、どこに費用が掛かるのかを確かめましょう」
エレオノーラはそう言いながら、手元の記録簿にアドリアンの提出した異議の要旨を書き留めた。
だが、その文書の末尾には、さらにもう一つの厳しい一項目が追加されていた。
エレオノーラはペンを止め、その一文を凝視した。
『加えて、二季の試行期間中に大規模な自然災害等が発生した場合、この優先運営権を一時的に解除し、他国の救援船の入港を優先させる特例条項を設けることができるか、見解を求める』
冬の非常時に、独占枠を解除できるか。
それは、来るべき冬の嵐と物流の停止を見越した、外交官としての極めて冷徹な、そして切実な問いだった。エレオノーラは、その一文を次の協議で確認する争点の筆頭へ書き写した。




