第08話【華やかに見せるだけの正妃】
宮廷報には『条約は新王妃の故国愛が結実』と書かれ、責任主体は国王からぼかされている。
第十日の朝。教導室の机に広げられたアルデイン王宮の公式広報紙には、そんな見出しが躍っていた。
記事には、近く締結される予定のラディア海邦との港湾特恵条約について、華やかな言葉が並んでいる。「新正妃リュシア殿下の尽力」「両国の懸け橋」「故郷を思う妃の愛が王を動かした」と。
だが、その記事を読んでいるリュシア本人の顔は、紙面より白かった。
「……エレオノーラ様。わたくしは、条約の交渉の席になど一度も座っていません。内容を知ったのもつい先日です。なのに、なぜわたくしが全てを取り決めたかのように書かれているのですか」
「それが、国王陛下の望まれる『広報』だからです」
エレオノーラは感情を交えずに答えた。
明後日の公開影響聴聞儀は、冒頭に条約案の説明を行い、続いて国内への影響を聞き取る予定だ。その説明の場でも、リュシアは前面に立たされることになっている。しかし先日、国王の指示によって『新正妃本人への質疑応答は省く』という通達が出されたばかりだ。
王の狙いは明確だった。リュシアに条約の美しい看板役だけを担わせ、彼女自身の言葉を封じる。そして、ベルク港の『十年優先運営権』という国内の小船主たちを切り捨てるような過酷な独占条項に対して批判が噴出した際には、「新王妃が故国を贔屓したせいだ」と責任の矢面に立たせるためだ。
さらに言えば、もし冒頭の説明でリュシアの立ち振る舞いに少しでも瑕疵があれば、それは「教導官である元王妃の教育不足」として処理されるだろう。王は、自分に傷がつかないよう、巧妙に責任の所在を他者へ転嫁しようとしていた。
「このままでは、わたくしは何も発言できないまま、故郷を売ったような条約の全責任を負わされることになります……」
リュシアの琥珀色の瞳が不安に揺れた。彼女はすでに、ガルド組合長から、独占条約が結ばれなければ復興基金の送金を縮小するという脅しを受けている。これ以上、不当な責任まで背負わされれば、新正妃は完全に押し潰されてしまうだろう。
「交渉をしていないあなたが、交渉者の責任まで負う必要はありません。誰が何を決めるのか、明らかにしましょう。……イネス」
「はいっ」
エレオノーラの声に、補佐官のイネスが即座に羊皮紙と定規を用意した。
エレオノーラは流れるような手つきで、一行ずつ文字を書き込んでいく。それは誰かを非難する文章ではなく、極めて客観的な『公開用の職務の分担表』だった。
「条約というものは、権限を持つ者の署名でしか成立しません。あなたが聴聞儀の場に立つにしても、そこには明確な『肩書き』と『権限の限界』が必要です」
書き上げられた分担表には、二つの項目が明記されていた。
一つ。『条約交渉責任者:国王レオナール』。
二つ。『王妃府聴聞儀主宰:正妃リュシア』。
「マリナ。至急セシル典礼局長をお呼びなさい。この分担表を、明後日の公開影響聴聞儀における正式な権限表記として、正規の承認経路で回してもらいます」
数分後、駆けつけてきたセシルは、その分担表を一読して小さく息を吐いた。
「……これを公文書として回せと? 国王陛下は、ご自身の名前が『交渉責任者』として最前面に出ることを嫌がっておられるのだぞ」
「ですが、事実です。国家間の条約交渉は国王陛下と外交局の職務であり、王妃には決定権がありません。典礼局が事実と異なる権限表記を放置し、外国使節に誤解を与えれば、それこそ国家の恥です。違いますか?」
エレオノーラの正論に、セシルは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも頷いた。
かつての正妃であったエレオノーラは、王の意を汲んであえて泥を被ることもあった。だが、今の彼女は『教導官』という契約で縛られた公職の人間だ。曖昧な感情論で王の責任逃れに加担することは、彼女の契約には含まれていない。
「分かった。典礼局から外交局と広報官へ確認を回す。正式な聴聞資料に権限を明記させよう」
外交局の確認を経て分担表が採用されたことで、リュシアに政治的責任をすべて押し付けようとする王の構造は、一部とはいえ明確に阻止された。リュシアはあくまで「国内聴聞の主宰者」に過ぎず、十年独占の決定権は王にあると、文書で証明されたのだ。
その日の午後。分担表が公に回覧されると、セシルが疲れた顔で戻ってきた。
「陛下からは叱責を受けたよ。だが外交局も、交渉窓口を曖昧にはできないと答えた。表記はこのままでよいそうだ」
王は正式な権限表記を撤回させる代わりに、新しい広報文を出した。
『新王妃が聴聞を主宰できるよう、経験ある元王妃を教導官に据えた。両者の力を生かす配置である』。
今度はエレオノーラの教導成果を、自らの采配の宣伝に使うつもりらしかった。
エレオノーラは、王宮の廊下でその新たな通達を聞き、ただ無言でやり過ごした。王の虚栄心を満たすための道具にされるのは不愉快だったが、実務上の境界線が守られたのだから、代償としては安いものだ。
「教導官殿」
ふと、廊下の向こうから声をかけられた。
外交局での公務を終えたばかりのノルテ公国特命外交官、アドリアン・フェルスだった。彼の隣には、外交局の事務官が数名同席している。完全な公開の場だ。
「先ほど、典礼局から聴聞儀の新たな権限表記の通知を受け取りました」
「いかがでしたか。何か不備がございましたか?」
エレオノーラが事務的に問い返すと、アドリアンは緑灰の目をわずかに細め、淡々と言った。
「いいえ。行政文書として、当然の訂正がなされたと評価しております。条約の責任主体が不明確なままでは、我々他国としても協議の前提が崩れますから。これでようやく、正しい手順で議論ができます」
王の顔色を窺いながら整えた分担表を、彼は当然のものとして読んでいた。それだけで、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
エレオノーラは、彼に向かって小さく、だが確かな敬意を込めて一礼した。
しかし、息をつく暇はなかった。
教導室に戻ると、イネスが青ざめた顔で一通の重々しい書状を抱えて立っていた。
「エレオノーラ様。港務局の窓口を経由して、ベルク港から正式な請願書が届きました」
「ベルク港から……?」
エレオノーラが封を切ると、そこには荒々しいが力強い筆致で、切実な要求が記されていた。
差出人は、ベルク港の『小船主組合』。十年独占条約が結ばれれば、真っ先に深水岸壁から締め出され、生活の糧を奪われる地方の民たちだ。
『我々は、新王妃殿下が主宰されるという公開影響聴聞儀において、審議の傍聴を要求する』
リュシアは条約の責任者からは外れたものの、聴聞の『議長』としての役目は残っている。
いよいよ、彼女は華やかな宮廷の虚飾ではなく、自らの生存を懸けて怒る本当の民の声を、その身に受けることになるのだ。




