第07話【故郷を救う金には、送り主がいる】
教導室の机の上に、リュシアは故郷から届いた手紙を広げていた。
「『商人組合の皆様からの復興基金のおかげで、屋根の修理が進んでいます。どうか組合長殿によろしくお伝えください』……村の長からの、感謝状です」
第八日の朝。読み上げるリュシアの声は、少しも弾んでいなかった。
彼女の視線は、感謝状の隣に置かれたもう一通の分厚い羊皮紙に落ちている。それは、ベルク港の優先運営権を要求しているラディア商人組合の長、ガルド・ロヴィエからの私信だった。
「ガルド組合長は、遠回しにこう言ってきています。アルデインとの十年独占条約が結ばれなければ、先の見通しが立たず、故郷への支援金も縮小せざるを得ない、と」
リュシアは琥珀色の瞳を歪め、両手で顔を覆った。
「わたくしが独占条約に反対すれば、故郷の村は見捨てられます。わたくしには……どうすればいいのか分からない」
それが、新正妃を縛る鎖の正体だった。
海邦の復興基金の送金実務をガルドの組合が握っている以上、リュシアにとって彼らの要求は絶対だ。恩義と人質を同時に突きつけられているようなものだった。
エレオノーラは、彼女の苦悩を静かに見つめていた。
かつての正妃であったエレオノーラには、母から受け継いだ四百銀冠相当の個人資産がある。その一部を寄付すれば、当座の食糧くらいは補えるかもしれない。だが、今聞いたのは、これからの送金を縮小するという話だ。必要な額も、届く先も確かめずに穴埋めを約束すれば、また一人の財布を頼りにするだけになる。まず、途切れれば誰が何に困るのかを確かめたい。自分の私財で港の復興を支え続けることはできなくても、探せる道はある。
「リュシア様。その私信はリュシア様宛てのものです。私が勝手に、外の方へ持ち出すことはできません。ですが、公開されている資料から、別の道を探ることはできます」
「別の道、ですか?」
「はい。私に資金を約束する権限はありません。ですが、情報の出所を整理し、あなたが決断するための材料を揃えることはできます。……調べてもよろしいですか?」
リュシアが力なく頷くと、エレオノーラは補佐官のイネスとマリナに指示を出し、誰もが閲覧可能な周辺地図、ラディアの地方行政区画の資料、そして近隣の海運組合の登録簿を取り寄せた。
エレオノーラは新しい海図を広げ、三つの線を引いた。
「ガルド組合長の送金ルートが断たれた場合、考えられる代替経路です。第一に、規模は小さくとも別の地方信用組合を経由するルート。第二に、別の船主と陸路を組み合わせる代替輸送網。そして第三に、ラディア政府による直轄の支援要請です」
「政府直轄……。なぜ先に、政府へ確かめなかったのでしょう」
「今からでも遅くありません。基金の原資と、組合が支払いを止められる条件も確認しましょう」
リュシアは頷き、王都にいるラディア政府の使節へ正式な照会を出すと決めた。本国の基金台帳との照合には海路の往復も要る。返答を待つ間にも、代替の道を探さなければならなかった。
「返答を待つ間に、別の信用組合にも条件を照会しましょう。資金の出し手は、世界にガルド組合長ただ一人ではありません」
エレオノーラは筆記具をリュシアに差し出した。
「リュシア様。今、ベルク港の件で利益を得る者、損をする者のリストを、あなたご自身の言葉で書き出してみてください」
リュシアはペンを受け取り、迷いながらも羊皮紙に書き込み始めた。
『利益を得る者:ガルドの商人組合』『損をする者:アルデインの地方小船主、北方の商人』。
そして、最後にペンが止まった。
「……わたくしの故郷の村は、利益を得るのでしょうか」
「どう思われますか?」
「もし十年間の独占権を与えれば、ガルド組合長は莫大な富を得ます。ですが、それがそのまま村の復興に使われるという契約はありません。彼は支援を『縮小しない』と言っているだけで、豊かにするとは言っていない……」
リュシアの目が、はっきりと見開かれた。
恩義という感情のヴェールを剥がしてリスト化してみれば、構造は酷薄なまでに単純だった。ガルドは「故郷を救う」という名目を盾にして、リュシアという王妃の権力を利用し、自分たちの利益を永続化させようとしているだけなのだ。
「故郷を守ることと、あの一商会に従うことは、イコールではないのですね」
「はい。あなたが見捨てるべきではないのは故郷の民であって、特定の商人ではありません」
リュシアは深く息を吐き、机上の感謝状と私信をそれぞれ別の引き出しにしまった。恩義と公務の境界線を、彼女自身が明確に引いた瞬間だった。
同日の午後。
条約交渉に向けた、外交局での事務レベルの公開協議が行われていた。
エレオノーラは教導官として、王国代表団の議事研修のために後方の席に陪席していた。円卓にはアルデイン外交局の官僚たち、そして北方のノルテ公国から特命外交官アドリアン・フェルスが着席している。
議題はやはり、ベルク港の優先運営権についてだった。
「十年という長期間の独占は、陸路と海路を繋ぐ物流の公平性を著しく損ないます。我がノルテ公国としては、この条項の撤回、あるいは大幅な期間短縮を求めます」
アドリアンの緑灰の瞳は静かで、その発言には一片の感情的な揺らぎもなかった。
アルデインの官僚が「しかし、新正妃殿下の故国への配慮もあり……」と情に訴えようとしたが、アドリアンは即座にそれを制した。
「条約は国家間の利益の調整であり、個人の出自や情誼によって左右されるべきものではありません。私は今、関税と物流の実害についてのみ申し上げております」
彼は、リュシアがラディア海邦出身であることを知っている。彼女が故郷を案じていることも、容易に推測できるだろう。
だが、アドリアンはそれを一切攻撃材料にしなかった。
「海邦の女が自国に利益を誘導している」といった下世話な非難や、出自によるレッテル貼りを完全に排し、ただ条文の不備と自国の不利益という事実だけで議論を構成しているのだ。
エレオノーラは、記録を取りながら彼を見つめていた。
相手の弱みにつけ込まず、規範に則って堂々と反論する。その徹頭徹尾フェアな姿勢は、王宮という陰謀と足の引っ張り合いが日常の空間において、あまりにも清廉だった。
(……この方は、誰に対しても、越えてはならない一線を守る)
彼が自国の利益を主張することは、エレオノーラたちの向かう方向と対立する局面もあるだろう。しかし、それでも彼とならば、正しい手続きで議論を戦わせることができる。
エレオノーラは胸の奥に、好感というにはまだ静かすぎる、だが確かな信頼が積み重なっていくのを感じた。
協議が終わり、教導室に戻ったエレオノーラたちを待っていたのは、典礼局長セシルからの急な知らせだった。
「エレオノーラ殿。数日後に予定されていた『条約案説明会』の形式について、国王陛下から広報官経由で通達があった」
「通達、ですか?」
「ああ。新正妃リュシア殿下を前面に立たせる方針は変わらないが、説明会における『リュシア殿下本人への質疑応答』の時間を全て省くよう、指示が下った」
エレオノーラの隣で、リュシアがわずかに息を呑む気配がした。
質疑を省く。それはつまり、リュシアには何も答えさせないということだ。
国王レオナールは、リュシアが条約の細部を理解しつつあることに気づいていない。あるいは、気づいていたとしても、彼女をただ「故国愛で条約を結んだ美しき王妃」という無言の宣伝塔としてのみ利用しようとしているのだ。
(条約の成果は王のもの、だがもし問題が起きれば、前面に立った新王妃の責任になる……)
エレオノーラは冷たく目を細めた。
王はまたしても、自分に都合のいいように他人の責任を配置しようとしている。リュシアをただの飾りにしたまま、表舞台へ引き摺り出そうとしていた。




