第06話【十年間、閉じる港】
エレオノーラは、公表された条約骨子にある『十年優先』の文字を見て、その条項がもたらす動線を静かに地図へと書き写していた。
教導官としての初めての有給休務日である第六日が明け、第七日の朝。
誰もいない教導室の広い机の上に、エレオノーラはアルデイン王国の沿岸部と南西のベルク港を中心とした精緻な海図を広げていた。手元には、第五日の正式迎賓式後に王宮報で公表された『港湾特恵条約案』の写しがある。
ラディア海邦との間に結ばれようとしているこの条約の附則には、はっきりと『ベルク港の十年優先運営権を、ラディア商人組合に付与する』と記されていた。
エレオノーラは正確な筆記具を用い、条約案の文言通りに、大型船が入港できる深水用の岸壁を青く塗りつぶした。
残されたのは、喫水の浅い小さな川筋の船着き場だけだ。
そこへ、背後から重々しい足音が響き、不意に教導室の扉が開かれた。
「朝から熱心なことだな、教導官」
振り返ると、国王レオナールが数人の側近を伴って立っていた。王の視線は、机の上に広げられた地図と条約案の写しを冷たく見下ろしている。
「リュシアへの教育ご苦労。だが、君の仕事は儀礼と議事の進行を教えることだ。条約の良し悪しを吹き込むような『政治教育』は禁ずる。最終的に条約に印を押すのは私なのだからな」
「承知しております、陛下。私はあくまで、外交文書の読み解き訓練の準備をしているだけです」
エレオノーラは感情を交えず、淡々と頭を下げた。
王はそれ以上追及することはなく、「リュシアの故郷への想いを無駄にするなよ」とだけ言い残し、足音荒く去っていった。
故郷への想いを持ち出せば、それ以上の問いは出ない。王の言葉は、エレオノーラにはそう聞こえた。だが、エレオノーラが教えるのは条約の是非ではない。ただ、書かれている文字を正確に読む方法だ。
それから一時間後。
時間通りに教導室に現れたリュシアは、机の上の条約案の写しを見て、誇らしげに目を輝かせた。
「エレオノーラ様。これが先日公表された条約案ですね。ラディアの商人組合がベルク港の優先運営権を得れば、沿岸部の交易は活発になり、先の嵐で衰退したわたくしの故郷の港町も、きっと豊かになりますわ」
リュシアの言葉には、故国を救えるという純粋な希望が満ちていた。国王が選んだ独占権が、ラディア海邦の沿岸全体に利益を分配する制度だと信じ切っているのだ。
エレオノーラは否定も肯定もせず、ただ静かに条約案の三枚目を指し示した。
「では、本日の文書読解訓練を始めます。リュシア様、この附則の第七項を声に出して読んでみてください」
「第七項、ですか? ええと……『ただし、積載量三十樽以下の国内小船枠については、優先運営権の対象から除外し、別途港務局の指定する荷役場のみを使用するものとする』……。これがどうかしましたか?」
「では、その『指定する荷役場』がどこになるのか、この地図に書き写した動線図と照らし合わせてみてください」
エレオノーラが提示した地図には、大型商船が独占する青く塗られた深水岸壁と、そこから弾き出された『除外小船枠』が向かうべき細い川筋の荷役場が、赤い線で示されていた。
リュシアの視線が、赤い線をなぞる。
そこはベルク港の主要な街道から遠く離れ、干潮時には底の泥が露出するような不便な水路だった。
「これは……」
「この案では、組合以外が使える岸壁を狭めています。この条項が発効すれば、アルデインの地方小船主はもちろん、あなたの故郷であるラディア海邦の小さな漁村の船も、すべてこの不便な川筋へ追いやられます。良質な岸壁は、ラディアの『商人組合』が独占するのですから」
リュシアの琥珀色の瞳が揺れた。
彼女は焦るあまり、条約の華やかな骨子だけを見て、末尾の除外規定を読み落としていたのだ。
「組合が利益を得れば、それは海邦全体に還元されるはずでは……」
「商人組合という組織の利益が、自動的に故郷の漁村の民の懐へ入る仕組みが、この条約のどこかに書かれていますか?」
エレオノーラの問いに、リュシアは慌てて条約案の束をめくり返した。だが、いくら探しても、利益の還元を義務付ける文言など一文字も存在しない。
ただラディア商人組合の運営利益が膨らむだけで、リュシアが本当に救いたかった故郷の小さな港町が直接的に潤う保証は、どこにもなかったのだ。
「そんな……わたくしは、故郷の民を見捨てないために嫁いできたのに。これでは、一部の商人が太るだけではないですか」
リュシアの肩が震えた。自分の無知が、結果として故郷の民を切り捨てる条約を後押ししようとしていたことに気付いたのだ。
エレオノーラは王の政策を批判して歓心を買おうとはしない。ただ、リュシア自身が文書の裏にある実態に気付くための手助けをしただけだった。
「条約の決定権は陛下にあります。ですが、その条約が誰にどのような影響を与えるのかを正確に読むことは、王妃の務めです」
「……はい。わたくしが、愚かでした」
リュシアが唇を噛みしめたその時、補佐官のイネスが教導室に数通の書類を運んできた。
「エレオノーラ様。外交局から、公表された条約案に対する各国の正式な質問書が回覧されてまいりました」
「見せてください」
エレオノーラが受け取った書類の束の一番上にあったのは、北方のノルテ公国からの質問書だった。
そこには、ベルク港が十年間一国の組合に独占されることで、ノルテの北方商人にもたらされる不利益と、国境貿易における公平性の担保について、明確かつ理路整然と問いただす文言が並んでいた。
署名は『ノルテ公国 特命外交官 アドリアン・フェルス』。
エレオノーラは、その正確な筆致に見入った。
彼もまた、条約の骨子を見たはずだ。そして、エレオノーラに裏から手を回して王を説得するような非公式な要求は一切せず、公開された条項に基づき、外交局を通じた正式な書面で堂々と自国の不利益を主張してきたのだ。
互いに越権行為をせず、正規のルートで議論のテーブルに争点を載せる。その誠実な仕事ぶりに、エレオノーラは彼への信頼を確かなものにしていた。
「ノルテ公国からも、独占に対する懸念が示されています。この条約案は、まだ批准されたものではありません。これから外交局での協議が始まります」
エレオノーラが書類を机に置くと、リュシアは青ざめた顔でそれをじっと見つめた。
本来なら、新正妃として、あるいは故郷を思う一人の女性として、この独占条項の修正を王に直訴してもおかしくない状況だ。
しかし、リュシアはきつく両手を握りしめ、まるで何かに耐えるように首を振った。
「……駄目なのです。わたくしには、この条約に反対することはできません」
「なぜですか」
エレオノーラの問いに、リュシアは絞り出すような声で言った。
「先の嵐で壊滅したわたくしの故郷の港町は、今、『復興基金』からの送金で辛うじて生きています。そして……その基金の実権を握り、送金を行っているのは、この条約で優先運営権を得ようとしているラディア商人組合の組合長なのです」
教導室の空気が、ふっと冷たくなった。
それは単なる利益の偏りという問題ではない。
支援を止められることを、リュシアは恐れているのか。エレオノーラは結論を急がず、彼女が次の言葉を継ぐのを待った。




