第05話【新王妃様は、王の台本を伏せた】
リュシアは、国王が用意した挨拶を読まなかった。
第五日、正式迎賓式。王宮で最も豪奢な大広間には、各国の外交使節団が整列し、玉座の前には新正妃リュシアが立っていた。
彼女の手の中には、昨日国王レオナールから手渡された台本が握られている。それはリュシア自身が選んだ「二国の礼を対等に行う」という原稿を、王が赤いインクで『アルデインの伝統的な礼のみに統一する』と無惨に書き直したものだった。
エレオノーラは、壁際の教導官の立ち位置から、静かにその背中を見つめていた。
式典が始まる直前の控室で、台本を握りしめて震えるリュシアに対し、エレオノーラはあえて何の指示も与えなかった。
『どちらの礼法を行うのか。選べるのはあなたです』
典礼局には、二つの礼の時間と進行を既に確認してある。王が原稿を直しても、規程が禁じていない礼を選ぶ権限までは失われない。その説明を済ませた上で、最後にそう告げた。
王の台本通りに読めば、王の機嫌は取れる。アルデインの貴族たちも安堵するだろう。だが、それはリュシアが自分の頭で考えた選択を捨て、飾りの王妃に成り下がることを意味していた。
もしリュシアが海邦の礼を交えたことで式が混乱すれば、当然のように「教導官の指導不足」としてエレオノーラも処罰の対象になる。それでも、彼女はリュシアの判断を奪わず、選択の責任を新王妃へ返したのだ。教えた規程や準備に誤りがあれば、それは自分が引き受ける。
大広間に静寂が落ちる。全ての視線がリュシアに注がれる中、彼女は手元の原稿にゆっくりと目を落とした。
数秒の沈黙。
やがて、リュシアは真っ赤なインクで直された台本を、読み上げ台の上に伏せた。
彼女は顔を上げ、まずアルデインの宮廷礼儀に則り、完璧な角度と優雅さで使節団へ向けて深々と頭を下げた。アルデインの貴族たちが満足げに頷く。
だが、リュシアはそこで終わらなかった。顔を上げた彼女は、今度は自身の銅色の髪に編み込まれた海邦の青い組み紐にそっと右手を当て、海邦の伝統的な敬意の所作を流れるように行ったのだ。
それは、二つの国の文化をどちらも貶めることなく、対等に尊重する『併記案』の完璧な実行だった。
大広間に一瞬のざわめきが走った。しかし、海邦の使節はもちろん、その場にいた他国の使節団も、一方的な形式の押し付けではない真摯な敬意を受け取り、すぐさま深々としたお辞儀を返した。
文化の衝突を回避し、双方の顔を立てた堂々たる新正妃の采配に、式場は静かな感嘆に包まれた。
ただ一人、玉座の上の国王レオナールを除いて。
王の顔には見事な微笑が貼り付いていたが、肘掛けを握る手は白く張っていた。「夫の言う通りにするだけの従順な妻」という予測が、公の場で初めて、明確に裏切られた瞬間だった。
大任を終えたリュシアが控室へ戻ってきたとき、彼女の表情には、これまでの不安を跳ね除けた確かな誇りの光があった。
「……やりました。アルデインの王妃として、わたくしの故郷の礼をしました」
リュシアは振り返り、待機していたエレオノーラを真っ直ぐに見つめた。今朝までの硬さがほどけた声で、その名を呼んだ。
「エレオノーラ様。あなたが、二つの礼を並べても規則違反ではないと教えてくださったからです」
その響きに、エレオノーラの灰青の瞳がわずかに見開かれた。身分を奪われた自分に対し、新正妃が個人的な信頼を示したのだ。
だが、エレオノーラは表情を崩さず、小さく首を振った。
「私は公開されている選択肢をお見せしただけです。王の圧力という重圧を引き受け、公の場で実行したのは、リュシア様ご自身の判断です」
「でも、あなたが選ばせてくれた」
リュシアはほっとしたように微笑んだ。二人の間にあるのは、勝者と敗者の冷たい壁ではなく、共に困難な実務を乗り越えた者同士の、静かな連帯だった。
その後、公式な面会や挨拶が続く王宮の廊下で、エレオノーラは補佐官を伴って歩いていた。
向こうから歩いてきたのは、ノルテ公国の特命外交官アドリアン・フェルスだった。彼は補佐官たちにも会釈し、すれ違いざまに穏やかに声をかけた。
「本人の判断を奪わなかったのですね」
それは、エレオノーラが裏で新正妃を操るのではなく、本人が自立して決断するよう導いたことへの、正確な評価だった。
エレオノーラは「ええ」と頷き、ようやく肩の力を抜いた。
「式の間、息を止めておられましたね」
「そちらも、最後の礼が済んだ時に大きく息をつかれたでしょう」
言い返してから、少し馴れ馴れしかったかと彼を見た。アドリアンは困ったように笑った。
「気づかれていましたか」
その笑みにつられ、エレオノーラも口元を緩めた。あれほど落ち着いて見えた人も、同じように息を詰めていたのだ。
式典の余韻も冷めやらぬ午後。
教導室の机に、外交局から回覧された新たな公開文書が置かれていた。それは国王が正式に提示した、ラディア海邦との『港湾特恵条約案』の骨子だった。
エレオノーラは目を通し、その附則の一文に視線を釘付けにした。
『ベルク港の十年優先運営権を、ラディア商人組合に付与する』
十年優先運営権。それはつまり、港という国境に架かる一本だけの橋の通行料を、一国の一組合が十年間も握り続けることを意味する。
華やかな条約の影に隠された、あまりにも巨大な利権。
エレオノーラは静かに羊皮紙を置き、この条項がもたらすであろう未来の混乱を正確に予測していた。




