第03話【規則は、人を恥から守るためにある】
印刷工房の扉には、『支払許可なし』の紙が貼られていた。
第三日の朝。教導室に飛び込んできた補佐官の報告を聞き、リュシアは青ざめた顔で立ち上がった。
「そんな……あと数時間で、各国の使節団が王都の門をくぐるのですよ。旧王妃様のお名前のまま、彼らをお迎えしろと言うのですか」
王の決裁が下りなかったことで、歓迎状の刷り直しは完全に不可能となった。
教導室の空気が重く沈む中、新正妃に付き従う侍女の一人が、恨みがましい視線をエレオノーラに向けた。
「エレオノーラ様。以前のあなた様であれば、このような事態にはご自身で筆を執り、夜を徹してでも数百枚の歓迎状を手書きで修正されたと伺っておりますが」
暗に「あなたが昨日から残業して直すべきだった」と非難する声。王宮の官僚たちも、何か問題があればとりあえず旧正妃が身を粉にして解決してくれるものと、長年の習慣で信じ込んでいる。
しかし、エレオノーラは冷たく澄んだ灰青の瞳で侍女を見返した。
「私は昨日、教導官としての六時間の勤務を終えて退出しました。契約にない業務を、無給で引き受ける義務はありません。それに、今から数百枚を手書きしたところで配る伝達員も足りません」
エレオノーラは時計を見た。感情論で誰かを責めている時間はない。
「イネス、マリナ。二人に手分けして動いてもらいます」
「は、はい」
「マリナは至急、典礼局長セシル様をお呼びしなさい。イネスは入城歓迎の会場へ向かい、細部の装花を簡略化できるか、責任者に人員表を出してもらいなさい」
「装花を減らすのですか?」
「ええ。リュシア様と局長の承認を得て、案内を補助する人手を確保します」
リュシアは「装花は簡略に。正式な通知を優先してください」と頷いた。
数分後、息を切らしてやってきた典礼局長セシルに対し、エレオノーラは白紙の羊皮紙を一枚差し出した。
「セシル様。歓迎状の再発行は諦めます。代わりに、この紙に『主催名義を正妃リュシア殿下に更正する』旨を手書きし、典礼局の公印を押してください」
「昨夕の照会は確認した。招待客全員でなく、各国の使節団長への交付でよいのだな」
「はい。使節団ごとに一通ずつと、保存用の控えをご用意ください。外交局で送達番号を付け、担当官から各代表へお渡しします」
セシルは必要な通数を書き留めた。王家婚姻法と外交慣例において、相手使節への正式通告は変更後七日以内と定められている。典礼局が発行し、外交局の送達番号を付した更正票を相手使節に直接交付すれば、それは口頭の訂正や下書きではなく、七日以内の公式通告そのものを兼ねる。
「……なるほど。控えを儀礼簿の筆頭に添付し、入城の際に各使節団長へ交付して受領を記録すれば、正式な通告になる」
「その通りです。予算の承認も、何百枚もの印刷も必要ありません。各国に届いたと確かめられる書類で、新正妃様の体面は守られます」
セシルがその場で文面を確定し、担当官へ各通の作成と押印を命じた。
エレオノーラは交付前の更正票案を、リュシアの前に差し出した。
「リュシア様。これが入城歓迎における、あなたの最初の公式な主催名義です。ご確認ください」
リュシアは震える手でその羊皮紙を受け取った。そこには、ただの飾りではない、国家の正式な手続きを踏んだ自分の名前がある。
「……確認しました。これで、彼らをお迎えします」
「よろしい。マリナ、これを外交局の窓口へ。イネス、装花係の再配置は済みましたか」
「はい、局長の配置指示も受けました!」
教導室が、かつてないほどの機能的な速度で回り始めた。
イネスは装花係から受け取った人員表に、交付補助の担当名を書き足した。
「今まで、こうした手配までお一人でなさっていたのですね」
その言葉に、エレオノーラは短く頷いた。今日は二人の補佐官と典礼局の担当が、それぞれの持ち場へ向かっている。
そして、使節団の入城時刻が訪れた。
王都の門をくぐる各国の馬車を、簡略化された装花の前で案内役が迎えた。外交局の担当官は、それぞれの使節団長へ更正票を交付し、受領を送達簿に記していった。
「主催名義の更正通知でございます。本日の入城歓迎は、正妃リュシア殿下の主宰となります」
使節たちは戸惑いながらも、羊皮紙に記された外交局の送達番号と典礼局印を見て、それが急場しのぎの言い訳ではなく、正式な国事行為としての通告であることを理解した。質問を受けた担当官は、席次変更の日付と本日の主催者を説明した。使節たちは更正票を携えて列へ戻り、歓迎の手順が止まることはなかった。
リュシアは城のバルコニーから、胸を張って使節たちに歓迎の礼をとった。彼女は恥をかかなかった。最初の失点は、各国へ届けた書類と、正確な規則の運用によって防がれたのだ。
列の中ほどで、ノルテ公国の使節団が礼を返すのが見えた。先頭に立つ黒褐色の髪の男性が、エレオノーラの控える位置へも静かに頭を下げた。
入城歓迎の後、外交局の担当官から、更正票を受領した各国の記録が届いた。ノルテの欄には『主催名義の変更を確認。速やかな更正に謝意を表する』とある。署名は、昨日の照会と同じアドリアン・フェルスだった。
(あの外交官は、肩書きではなく、書類の正確さを見ている)
王宮で誰からも理解されなかった彼女の実務の言語を、正確に読み取れる人間がいる。その事実は、エレオノーラの胸の奥に、ほんのわずかな温かさを灯した。
だが、安堵の時間は短かった。
入城歓迎が無事に終わり、教導室に戻ったエレオノーラたちの前に、セシルが新たな書類を積み上げた。
「エレオノーラ殿。本日は助かった。だが、二日後、第五日の『正式迎賓式』の式次第で、大きな問題が起きている」
「何事ですか」
「新正妃リュシア殿下が、祖国ラディアの古い礼法で使節を迎えると主張されている。しかし、アルデインの伝統的な宮廷礼儀とは、手順も、頭を下げる角度も全く違う。このままでは式典の場で、二つの礼法が正面衝突する」
リュシアが祖国の誇りを守ろうとする姿勢と、アルデインの権威を守ろうとする王宮の慣例。
第五日に向けて、規則と感情が交差する新たな戦いが幕を開けようとしていた。




