第02話【新しい正妃は、謝る相手を間違えない】
新しい王妃は、歓迎の言葉より先に間違った名前を指さした。
「……エレオノーラ様。明日の入城歓迎式の歓迎状ですが、主催者があなたの名前のままになっています。これは、どういうことでしょうか」
第二日の朝。初めて足を踏み入れた教導室で、新正妃リュシアは卓上の書類を前に琥珀色の瞳を鋭くしていた。
海邦の青い組み紐を銅色の髪に編み込んだ彼女の背後では、祖国から付き従ってきた侍女が、降格された旧王妃であるエレオノーラに対して露骨な警戒心を張り詰めている。昨日まで正妃だった自分が、彼女たちに警戒されるのも無理はない。
だが、エレオノーラは灰青の瞳に何の感情も浮かべず、持参した書類鞄を静かに置いた。
「席次の変更が、発送を担当する部署まで届いていなかったようです。昨夕、典礼局へ確認を依頼しました。まだ使節への正式通告は済んでおりません」
「なら、すぐに直させないと」
「その前に、リュシア様。ご確認いただきたい書面がございます」
エレオノーラは歓迎状の件を一旦横に置き、一枚の羊皮紙を滑らせた。そこには、財務長官の予算確保印と典礼局長の任命印が押されている。
「本日から第三十日までの二十九日間、私は日額六銀冠の報酬を得て、教導官としてあなたにお仕えします。実働は一日六時間。指導範囲は儀礼、議事進行、文書の読み解きに限定され、条約への調印や国費の支出、実務の代行は契約に含まれません」
リュシアは目を丸くした。
「陛下は、これまで通りあなたに任せておけばよいと……。報酬や任期のお話は、聞いておりませんでした」
「昨夕、正式に任命されました。こちらが、その条件です」
エレオノーラは任期と職務範囲の欄へ指を添えた。
「つまり……あなたはわたくしに教えるだけで、代わりにやってはくれないということですか?」
「はい。ただ、分からないままお任せすることはいたしません。判断に必要なことをお教えし、実務は担当の部署へつなぎます。最後に選ぶのは、リュシア様です」
侍女が「殿下に何もかも背負わせるおつもりですか」と小さく息を呑んだが、エレオノーラは一瞥もくれなかった。彼女は謝罪も同情も求めていない。求めているのは、契約に基づく対等な実務だけだ。
「では、本日の教導に入ります。明朝、第三日の『入城歓迎』と、三日後の第五日に行われる『正式迎賓式』は、全く別の儀礼です。明日は到着を労うだけの場ですが、第五日の式典では、あなたがアルデイン王国正妃として、どの礼法で使節を迎えるかが問われます」
エレオノーラが儀礼規程の図解を広げると、リュシアは少し意固地になったように顎を上げた。
「わたくしはラディア海邦の誇りを持って嫁いできました。海邦の礼を通すつもりです」
その言葉に、エレオノーラは冷ややかな声で応じた。
「あなたが『アルデインの礼を知らない』から海邦の作法をするのと、『両国の礼を熟知した上で、あえて海邦の礼を選ぶ』のとでは、政治的な意味合いが全く異なります」
「……どう違うというのです」
「前者はただの無作法として嘲笑され、王国の恥となります。後者は、海邦の威信を示す明確な政治判断として外交記録に残ります。故郷の礼を守りたいのでしたら、まず相手の礼も知っていただきたいのです。知らずに背いたと受け取られれば、お伝えになりたい敬意まで届かなくなります」
侍女が憤怒の表情で一歩前に出かけたが、リュシアが片手でそれを制した。彼女は唇を噛みしめ、図解に目を落とした。
エレオノーラは図解の余白をリュシアへ向けた。海邦の礼を否定するための朱線は、どこにも引いていない。リュシアの指が、その余白で止まった。
「……分かりました。両方の作法を頭に入れます。その上で、わたくしが選びます」
リュシアの言葉に、エレオノーラは密かに安堵した。
視線をふと卓上の端に移すと、そこには封の開いた小さな手紙があった。宛先は、王宮の末端で働く現場の設営係だ。
「それは?」
「ああ、昨夜のうちに、現場の係の者が『飾りの配置が前の王妃様の様式のままで、指示が来ていない』とこっそり教えてくれたのです。ですから、気づいてくれたことへの感謝を書いて、後で届けさせようかと」
エレオノーラは少しだけ目を見開いた。
自分の失点になる不備を知らされ、腹を立ててもおかしくない場面だ。それでも、この新しい正妃は、不備を知らせてくれた現場の人間に対し、出自や身分を問わず自筆で謝意を伝えようとしている。
少なくとも、知らせに来た者へ怒りを向ける人ではない。
「わたくしは、国王陛下に言われた通りに微笑むだけの、飾りの王妃にはなりません」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにエレオノーラを射抜いた。
「故郷の港が、先の嵐で壊れました。交易を立て直す助けになれると思って、この結婚を受け入れたのです」
その声を聞き、エレオノーラは初めて、彼女が王妃の座に求めているものを知った。エレオノーラは「教えがいのある生徒です」とだけ短く返し、次の議題へ移った。
「では、最初にご指摘いただいた、明日の入城歓迎状の名義についてです。外交局から、各国の使節団からの照会文書が回ってきております」
今朝、補佐官として紹介されたイネス・ラウが運んできた文書の束をめくり、エレオノーラはその中の一通に目を留めた。
それは北方のノルテ公国からの照会文書だった。他の国々が『主催者が旧王妃のままであるが、政変でも起きたのか』と嫌味や混乱を書き連ねている中、その一通だけは異彩を放っていた。
手違いや王宮の不手際を一切責めることなく、極めて事務的にこう記されている。
『正妃殿下の交代につきまして、修正された公式な歓迎状の到着期限を伺いたく存じます』
感情を排し、実害の有無と必要な手続きだけを問う、冷徹なまでに理知的な文章。署名には『ノルテ公国 特命外交官 アドリアン・フェルス』とあった。
エレオノーラは、この混乱した王宮の騒ぎに巻き込まれず、正確に実務の要点だけを見据えている他国の人間がいることに、奇妙な頼もしさを覚えた。
「リュシア様。このノルテ公国のように、冷静に正しい歓迎状を待っている国もあります。明朝の入城歓迎式までに、あなたの名前が記された歓迎状を届けねばなりません」
しかし、事態はそう簡単ではなかった。
もう一人の補佐官マリナが青ざめた顔で教導室に入ってきたのは、その直後だった。
「エレオノーラ様! 印刷工房から、歓迎状の刷り直しを拒否されました!」
「理由はなんですか」
「『予算承認なし』です。大量の歓迎状を急遽刷り直すには、国王陛下の持つ『広報費』の決裁印が必要だと言われました」
エレオノーラは眉をひそめた。
「財務長官に確認を取りなさい。規定の枠内でなんとかならないかと」
「それが、国王陛下は朝から市中視察に出られており、夕方まで戻られません。財務長官も、国王の決裁がなければ広報費の枠は動かせないと……」
王は席次を変える命令さえ出せば、費用も発送も従来の担当が収めると考えたのだろう。だが、名義変更を伴う臨時の増刷には、別の決裁が要る。そして、王が戻るのを待ってから印刷を始めれば、明朝の入城歓迎には到底間に合わない。使節団は、間違った名前の歓迎状を握りしめたまま王宮の門をくぐることになる。
新正妃にとって、取り返しのつかない最初の失点となるだろう。リュシアも事態の深刻さに気づき、顔色を失っていた。
(徹夜で手書きで直すか? いいえ、それでは私の六時間の勤務枠を超える。それに、間に合ったところでただの『旧王妃の尻拭い』で終わる)
エレオノーラは手元の懐中時計を見た。残された勤務時間は、あと四時間。
「増刷以外に、正式な名義訂正の方法を確認しましょう。典礼局へ、更正票の発行と門前での交付ができるか照会してください」
エレオノーラはイネスへ指示を渡した。人員と公印の手配が間に合うか。机に残った『予算未承認』の札を見つめながら、返答を待った。




