第27話【王宮の外で、同じ歩幅で】
第四十八日の早朝に王都の従姉の借家を発ち、馬車に揺られること正味四十八時間。第五十日の早朝、エレオノーラは亡き母の故郷であるミレア町へと到着した。
王都セレスから離れたこの地方町には、石造りの巨大な城壁も、権力を誇示する赤い絨毯もない。ただ澄んだ冬の空気と、人々の穏やかな暮らしの息遣いがあった。
エレオノーラは、事前に私費で手付金を支払っていた小さな貸店舗の鍵を大家から受け取ると、その足で自らの『城』となる部屋へ足を踏み入れた。
同日の午後。彼女は木の香りが残る室内に小さな机と椅子を並べ、手元の帳面にペンを走らせていた。
母から受け継いだ婚前相続財産と、王宮で二十九日間働いて得た教導給与。その私産の中から保証金と最低限の設備費を支払ったため、手元の資金には決して余裕があるわけではない。王室の名義や後援を一切拒絶した以上、初めから多くの生徒が集まる保証はなく、学舎の収支が赤字に転落する恐れは常にあった。
それでも、机の位置を測り、適正な受講料を自らの手で計算している彼女の灰青の瞳には、かつてないほど静かで確かな光が宿っていた。
彼女は一枚の大きな羊皮紙を広げ、入口の壁に貼り出すための『開設規約』を書き上げた。
『一、当学舎は、公開されている法令および行政教材のみを使用する。
一、王室の外交機密、ならびに王家婚姻裁定に関する非公開資料は一切扱わない。
一、授業料および教員の賃金はすべて事前に明示し、不当な寄付や後援は受け取らない』
元王妃という肩書に群がり、宮廷の裏事情や非公式な口利きを期待する者を初めから排除するための、明確な境界線だった。
「……あなたらしい、実に明快な規約ですね」
開け放たれた扉の向こうから、低く穏やかな声が響いた。
振り返ると、そこには外套の襟を立てたアドリアン・フェルスが立っていた。
出発前に届いた彼の便りには、白鴎号の運航費と輸送実績の報告を本国へ送り終えたとあった。協定の最終審査と調印は、本国が任命した全権代表へ引き継いだという。追加の説明を求められた時の連絡先を残し、公館内規に従って次席へ十四日間の休暇届を提出していた。エレオノーラとは別の馬車で、同じ第五十日の早朝にミレア町へ到着していたのだ。
とはいえ、現役の外国外交官である彼が頻繁に出入りすれば、この小さな塾が『ノルテ公国の後援を受けている』と周囲に誤解されかねない。そのため、彼は設備費の融資や保証人になるといった手助けは一切せず、ただ一人の休暇中の旅行者として、少し離れた宿に滞在していた。
「アドリアン。わざわざ見に来てくださったのですね」
「ええ。開講前の準備がどれほど進んだか、一人の見学者として拝見しに参りました」
アドリアンは微笑み、手に持っていた紙袋を差し出した。
「近くの市場で、焼きたての菓子を買ってきました。少し休憩にしませんか」
エレオノーラはペンを置き、頷いた。
二人は並べたばかりの生徒用の小さな木の机に向かい合って座り、市場の安い焼き菓子を半分に割って分け合った。
王宮の茶会に出されるような、金箔や希少な砂糖を使った華やかな菓子ではない。素朴な小麦と木の実の香ばしさが口いっぱいに広がる、温かくて少し不格好な焼き菓子だった。
「……とても美味しいです」
「それは良かった」
アドリアンは緑灰の瞳を和らげた後、手元の焼き菓子を見つめながら、ふと静かな声で語り始めた。
「エレオノーラ。先日の公開協議で、私が『一度、道を閉じる側にいた』と発言したことを覚えていますか」
「ええ。白鴎号の貸与を決めてくださった時ですね」
「まだ若い頃、本国の北方領で勤務していた時のことです。冬の大雪が迫る中、私の上司が予算不足と管理の手間を理由に、ある山間の峠道を早期に通行停止にする案を出しました。私はそれが周辺の小さな村を孤立させる無謀な決定だと気づいていたのに……規範と上司の権限を盾にして、反論しなかったのです」
アドリアンは、右手の古い火傷の痕をそっと撫でた。
「結果として、その村は一冬の間完全に孤立し、春に道が開いた時には、多くの住民が飢えと寒さで衰弱していました。国家機密でも何でもない、ただの私自身の公的判断の失敗です。規則を守るふりをして、責任から逃げた。その負い目が、ずっと私の背中に張り付いていました」
初めて明かされる、彼の痛ましい過去だった。
規範に固執し、感情を表に出さない厳格な外交官。その裏にあったのは、かつて自分の沈黙で人々を傷つけたという深い悔恨だったのだ。
エレオノーラは彼の告白を静かに受け止め、そして自分の手元に視線を落とした。
「……私も、同じです」
「エレオノーラ?」
「ベルク港の浸水警報が出た第十九日の夜のことです。私は教導契約で『一日六時間以内』と自分で境界線を引いておきながら、自分ならもっと速く正確にできると慢心して、翌日の明け方まで一人で無断残業をしてしまいました」
彼女は、同僚には詫びたものの、まだ彼には話していなかった失敗を言葉にした。
「その結果、引継ぎもないまま休み、補佐官たちに余計な苦労をかけました。人に頼るのが怖かったのです。私の知らないところで間違いが起きたらと思うと、手を離せなくて……。でも、全部を私の手元に置く方が危うかったのですね」
室内に、冬の柔らかい日差しが差し込む。
完璧な元王妃でも、隙のない特命外交官でもない。ただの不器用な二人の人間が、そこにいた。
「……弱さは、直せますね」
アドリアンが、しみじみと言った。
「ええ。ですが、それを隠して取り繕おうとすれば、必ず周りの人を傷つけます。だから私は、ここではもう、自分の限界を隠さないと決めました」
エレオノーラが微笑むと、アドリアンも深く頷いた。
その日の夕方近く。
店舗の前に出した、契約書と公文書の読み方を教えるという案内を見て、商家の若者や役場の書記見習いなど、数名の男女が訪れた。
王宮への紹介は頼めるのかと尋ねる者には、できないと答えた。そのうちの二名が、「公開されている法令の正しい読み方と、契約書の作り方を学びたい」と申し出て、自らの私費で初回の受講申込書に記名したのだ。
たった二名。だがそれは、エレオノーラが王室の看板を借りずに、自分の実務の力だけで獲得した、最初の確かな報酬だった。
夜になり、店の戸締まりを終えたエレオノーラを、アドリアンが彼女の宿まで送ることになった。
冷たい夜風が吹く石畳の道を、二人は同じ歩幅で並んで歩く。
どちらからともなく手が触れ合い、自然な仕草で指が絡み合った。手袋をしていない彼の手は、少しゴツゴツとしていて、ひどく温かかった。
宿の前の人気のない路地で立ち止まった時、エレオノーラはふっと息を吐き、自分からアドリアンの肩にそっと額を預けた。
厚い外套越しに伝わる、彼の確かな体温。過去の失敗も、自分の弱さもすべて打ち明けた後で、こうして誰かの肩に寄りかかることが、これほどまでに心を満たすものだとは知らなかった。
「……アドリアン」
「はい」
「私たちはこれから、どうなるのでしょうか」
アドリアンは彼女の背中にそっと手を添え、しかし抱きしめすぎることはせずに、穏やかに答えた。
「私はノルテの外交官としての職務があり、あなたにはこのミレア町で始まったばかりの学舎がある。すぐに結婚や移住を決めて、どちらかの仕事を犠牲にする必要はありません。しばらくは、王都および本国と、この町を行き来する形になるでしょう。……それでも、私の隣にいてくれますか」
自分の学舎を取り込もうとも、彼のために仕事を辞めろとも言わない。二人の生活と仕事を両立させるための、誠実な遠距離の提案だった。
エレオノーラは彼の肩から顔を上げ、微笑んだ。
「すぐにはお返事いたしません。どのように行き来し、どう時間を合わせるか……これから二人で、ゆっくり議論して決めましょう」
結論を急がず、二人の未来を対等に話し合っていける。その事実が、何よりも甘い幸福となって彼女の胸を満たしていた。
翌、第五十一日の朝、宿の主人から、昨日届いていた郵便物を渡された。店舗にいる間に着き、受け取りそびれていたものだった。
それは第四十九日の朝に王都で発送された『議会日程公報』だった。
そこには、第四十日の時点で予告されていた『正妃位次変更法の改正案』の採決日が、正式に第六十日に確定したことが記されていた。さらに、その議会には新正妃リュシア自身が参考人として出席し、自らの言葉で答弁を行うという。
「……リュシア様も、戦っていらっしゃるのですね」
公報を見つめるエレオノーラの隣で、アドリアンが少しだけ申し訳なさそうに口を開いた。
「エレオノーラ。私の休暇は第六十一日までです。第六十二日の朝から王都の公館で復務するため、第六十一日の朝には、早馬でここを発たなければなりません」
あと十日ほどで、彼は王都へ戻ってしまう。
以前のエレオノーラなら、「お仕事ですから気になさらないで」と完璧な笑みを浮かべていたはずだ。
だが、彼女は公報を握りしめたまま、彼の緑灰の瞳を真っ直ぐに見上げ、自分の本当の感情を言葉にした。
「……寂しくなります、アドリアン。あなたが王都へ戻られたら、私はきっと、とても寂しく思います」
隠さずに伝えられたその言葉に、アドリアンは愛おしそうに目を細め、彼女の手をもう一度強く握りしめた。
開講の日は、王都で議会の採決が行われるのと同じ、第六十日。
それぞれの場所で迎える決断の日が、静かに近づいていた。




