第28話【新王妃様、もう私の授業は終わりです】
第六十日の朝。エレオノーラは開講日を迎えた教室で、真新しい木の机を一つずつ丁寧に並べていた。
窓から差し込む冬の澄んだ陽光が、掃き清められた床を明るく照らしている。今日、遠く離れた王都セレスでは、王家議会での採決や復興審査会の重要な議事が行われているはずだ。だが、早馬でも二十四時間を要するこのミレア町には、まだ王都の知らせは届かない。今のエレオノーラにできるのは、自分の目の前にある新しい仕事を、契約通りに全うすることだけだった。
準備を終えて息をついた時、控えめなノックの音と共に、入り口の扉が開いた。
姿を現したのは、休暇中の平服を身に纏ったアドリアンだった。
「おはようございます、エレオノーラ。いよいよ開講ですね」
「ええ。生徒は二人だけですが、私にとっては大切な最初の授業です」
エレオノーラが微笑むと、アドリアンは静かに歩み寄り、誰もいない教室の中央で立ち止まった。
彼の休暇は、明日、第六十一日で終わりを迎える。明日の早朝には、彼は王都へ戻るためにこの町を発たなければならない。
「エレオノーラ。少しだけ、よろしいですか」
アドリアンが両腕をわずかに広げる。エレオノーラが小さく頷いて一歩踏み出すと、彼は大切な宝物を扱うように、そっと彼女の体を抱きしめた。
厚い外套と衣服越しに、彼の確かな鼓動と体温が伝わってくる。王宮にいた頃には決して許されなかった、互いに望んで近づける、親密な抱擁だった。
「明日の朝、私は王都へ発ちます。これから冬が深まれば、行き来も簡単ではなくなるでしょう」
アドリアンは彼女の栗色の髪に顔を寄せ、低く穏やかな声で尋ねた。
「それでも……雪が解けたら、次の春も、私の隣を歩いてくれますか」
それは、彼女の生活や仕事を奪うことのない、対等な未来への問いかけだった。
エレオノーラは彼の背中にそっと手を回し、その温もりを確かめるように目を閉じた。
「相談を続けながら、ええ。喜んで」
一方的な保護や身分の回復によって与えられる幸福ではない。二人の足で歩幅を合わせながら作っていく未来の約束だった。
やがて抱擁を解いたアドリアンに見送られ、エレオノーラは最初の受講生たちを迎え入れた。
翌、第六十一日の早朝。
白い息が混じる冷え込みの中、アドリアンは手配していた早馬にまたがり、王都へ向けて出発した。
エレオノーラは町の入り口まで彼を見送り、その背中が街道の彼方へ見えなくなるまで手を振り続けた。不思議と、以前のような身を切るような孤独はなかった。
そして、第六十二日の午後。
アドリアンが王都の公館で復務を果たしているであろう頃、ミレア町のエレオノーラの学舎へ、王都から早馬で運ばれてきた郵便物の束が到着した。
昨日の正午に王妃府から発送された、リュシアの私信と、それに添えられた第六十日の『王家議会・正式公報』だった。
午前の授業を終えていたエレオノーラは、自分の机に座り、まず公報の封を切った。二日遅れで彼女の目に飛び込んできたのは、王都で起きた歴史的な転換の記録だった。
『第六十日、王家議会において正妃位次変更法の改正案が可決され、同日、国王レオナール陛下により裁可された』
新しい法律により、以後の正妃の降格には、本人への事前の聴聞と王家議会の同意が必須要件となった。過去のエレオノーラの降格や離縁へ遡及することはないが、王が一片の宣告書で妻の地位を奪うような専横は、法的に二度と許されなくなったのだ。
公報の議事録には、参考人として出席した新正妃リュシアの答弁が、一字一句そのまま記録されていた。
国王側から渡された形式的な指示文を代読するのではなく、リュシアは自身の言葉で「地位の不安定さは、国政における責任の所在を曖昧にします」と堂々と意見を開陳していた。
港湾交渉の欄には、三国が必要な承認と調印を終え、二季試行の物流協定が発効したとあった。試行期間の優先枠を担う事業者は、港務局の公開選定で決める。小船枠を保護し、災害救援の航路と岸壁は優先枠から外す。ノルテ峠道の関税減免も、この冬から始まる。
リュシアが徹夜で書いた輸送費表は、今や国同士の約束になっていた。
エレオノーラはページをめくり、同日に開かれた『ベルク港湾復興審査会』の公示記録に目を落とした。
第三十八日から施行されたこの審査会において、議長であるリュシアは、既決の復旧予算枠千二百銀冠の初回配分と公開入札の条件を、自らの署名で決裁していた。
港務局の技術評価、財務長官代理の確認、地方船主代表の意見、そして監査院の公開立会い。それらを一件ずつ丁寧に検討した形跡が、公示された記録から見て取れた。リュシアの故国ラディアと関係のある事業者に対しては、事前の利益相反開示と厳格な評価手続きが課されている。
ガルドの組合は、虚偽の代表表示について弁明を経た上で二年間の入札資格停止となり、優先枠の選定にも復興入札にも参加できなくなった。ラディアの公費基金は、政府直轄への移管が進んでいる。
船止めの調査では、大型船が増水した川へ進めなかったことと、優先枠の確約を求めて追加の積み替えを断ったことが確認されたが、他船を故意に妨害した証拠はなく、その点の処分は行われなかった。
怒りのままに、すべてを同じ罪にしなかった。その結論を、エレオノーラはもう一度読んだ。
議事録の末尾には、こんなやり取りが小さく記されていた。
決裁にあたり、国王レオナールが「旧王妃がしていたような調整の助言を、誰か後継の者に求めなくてよいのか」と口を挟んだのに対し、議長であるリュシアはただ一言、こう答えたという。
『港務局と各委員の審査を受け、財務の確認も済んでおります。これは、法律で定められた審査会の手順による判断です。追加の確認が必要になれば、この場で担当者へ求めます』
エレオノーラは公報から目を上げ、誰もいない教室で、ふっと誇らしげな吐息を漏らした。
さらに公報の別紙にある人事異動欄には、典礼局長セシルのもとで若手官僚向けの『常設研修部門』が正式に発足したこと、そしてその実務を取り仕切る典礼局の主任として、元補佐官のイネス・ラウが昇進したことが記されていた。
エレオノーラが一人ですべてを背負うのをやめたことで、王宮には新しい制度が生まれ、人が育っていた。
最後に、エレオノーラはもう一通の封筒――リュシアからの私信を開いた。
海邦の青い組み紐を思わせる爽やかな便箋には、飾り気のない、けれど力強い文字が並んでいた。
『エレオノーラ様。ミレア町での新しい暮らしはいかがでしょうか。王都の議会と審査会については、完成した公報をこの便りに添えてお届けします。まだ迷うこともありますが、もうあなた一人に正解を預けることはいたしません。……今度は、わたくしが決めました』
そこには、かつてエレオノーラの後ろで不安げに震えていた新正妃の面影はなかった。自らの足で立ち、自分の署名に責任を持つ、一国の立派な統治者の姿があった。
エレオノーラは新しい羊皮紙を取り出し、ペンを執った。
誤字や脱字を赤く直すための教師のペンではない。一人の自立した女性から、遠く離れた場所で戦う友人へ宛てた、初めての私的な手紙だった。
『リュシア様。ご自身の決裁、誠に見事でした。あなたの選んだ道が、アルデインとラディアの海に穏やかな春をもたらすことを、心より祝福いたします。……もう、私の授業は終わりです』
書き終えた手紙を折りたたみ、封蝋を落とす。王家の紋章ではない、彼女個人のイニシャルが刻まれた小さな印を押した。
その時、机の上に置かれた母の懐中時計が、澄んだ音色で午後の時間を告げる鐘を打った。
エレオノーラは懐中時計を手に取り、静かに蓋を閉じてポケットに収めた。
窓の外を見れば、冬の陽だまりの中を、午後の授業を受ける生徒たちが歩いてくるのが見える。
ここには玉座も、豪華なドレスも、自分の代わりに戦ってくれる騎士もいない。アドリアンは王都で彼の職務を果たしており、リュシアは王宮で彼女の国を治めている。
エレオノーラは立ち上がり、濃い青緑の平服の裾を軽く払った。
そして、誰に命じられるでもなく、自分が雇用主であるこの小さな学舎の扉を、彼女自身の手でゆっくりと開け放った。




