第26話【王妃でなくなった日の約束】
第四十五日午前。王家婚姻裁定院のキーン主席判事の印が押された公文が外宮に届き、異議なしとの確定登記が通知された。
公文に記された今朝の登記をもって、婚姻は正式に終了していた。エレオノーラは独身に戻ったのだ。
窓から差し込む冬の薄日が、彼女の手元にあるその一枚の羊皮紙を照らしている。八年間の重圧と束縛が、法的に完全に消滅したのだ。外宮の自室を明け渡す期限は、二日後の第四十七日に設定された。
だが、王宮の悪習は最後まで彼女を引き留めようとした。確定通知から一時間も経たないうちに、国王の代理人として宰相が外宮を訪れ、うやうやしく書状を差し出してきた。
「エレオノーラ殿。国王陛下はあなたの手腕を惜しんでおられる。王家はあなたに、これまでの功労に報いるための『王室特別顧問』の座と、破格の年金をご用意いたしました。どうか王都に留まり、引き続き我が国を……」
「お断りいたします」
エレオノーラは書状を受け取ることなく、即座に遮った。
「私はもう、国王陛下の配偶者でも、王宮に雇われた教導官でもありません。私の人生の時間は、私が選びます」
宰相は渋い顔をして引き下がった。彼らにはもう、エレオノーラに命令する法的な権利は何一つないのだ。
彼女が王宮から持ち出すのは、衣服と書籍、母から受け継いだ懐中時計などの私物だけだ。資金も、母の婚前相続財産四百銀冠から手付金を支払った残りと、教導官として正当に稼いだ給与の百七十四銀冠のみ。給与は期限内に国庫から支給され、受領の署名も済ませていた。王の金には一銀冠たりとも依存しないと決めていた。
同日の午後。
荷造りの手を休めていたエレオノーラの元へ、アドリアンから面会を願う私信が届いた。明日、公の庭園で会えないかという。その封筒には、彼自身の職務辞退について、本人へ提示できる確認書が添えられていた。
エレオノーラは、そこに記された内容に息を呑んだ。
『本国外交局長宛てに利益相反申告を発送し、公館次席の受領印をもって、特命外交官アドリアン・フェルスは「アルデイン王宮の人事・典礼・元王妃の処遇案件」に関する一切の職務から辞退する。同案件については、代理担当官を指名した』
それは、彼が自国の公館内規に従い、エレオノーラとの私的な関係を築くための障害を、公的な手続きによって取り除いたという証明だった。辞退した人事・典礼・処遇の資料は代理担当官へ回し、本人には渡さないと記されていた。港湾条約と船の貸与について、彼自身が行った判断への説明責任は残る。噂まで防げるわけではない。それでも、言葉だけで済ませなかったことが、彼らしかった。
本国からの正式な受理の返答には、急使を飛ばしても往復で六日以上はかかる。彼はその承認を待たず、自分の責任でまず『辞退』を確定させた。
(……この方は、本当にどこまでも規則を重んじる)
エレオノーラは、その通知書を指先でそっとなぞり、微かに目を伏せた。
翌、第四十六日。
王宮の敷地の外れにある、他者の同席のない静かな公の庭園。枯れ葉の落ちた木々の下で、エレオノーラはアドリアンと待ち合わせていた。
二人は適度な距離を保って向かい合った。アドリアンの緑灰の瞳が、彼女の顔を静かに見つめている。
「昨日付で、私はあなたに関連するすべての職務から外れました。本国の正式受理はまだ届いていませんが、公館次席の受領をもって、私の手続きは完了しています」
彼は曖昧に誤魔化すことなく、事務的な事実から切り出した。
「ただ、これで周囲の見方が全て変わるわけではありません。それでも、公務の頼み事ではなく、私自身の気持ちをお伝えしたくて、お呼びしました」
「ええ。私も、そのつもりで参りました。昨日の顧問職の打診はお断りしました。王室の仕事に戻るつもりはありません」
エレオノーラが答えると、アドリアンは深く息を吐き、右手の古い火傷痕を包む手袋をゆっくりと外した。そして、一歩だけ彼女に近づいた。
これまでは『教導官殿』と呼ばれていた。だが、今の彼女には何の肩書もない。
「エレオノーラ」
その声の響きに、エレオノーラの胸が甘く締め付けられた。彼から初めて、肩書ではなく、自分自身の名前で呼ばれたのだ。
「初めは、あなたの仕事への向き合い方に惹かれました。ですが、いつからか、次に会えたら何を話そうと、仕事に関係のないことまで考えるようになっていました。……お茶の席で笑ってくださった時は、その顔をもう一度見たいと思いました。あなたを、お慕いしています」
それは、飾らない、誠実な告白だった。
エレオノーラは彼を見つめ返した。すぐに「私も」と答えることはできた。だが、彼女は自分の内にある孤独への恐怖や、誰かに寄りかかりたいという脆さを知っていた。
彼女は、彼に救われるから付き合うのではない。誰かに頼りたい気持ちがあっても、自分で彼を選んだと伝えたいのだ。
「……ありがとうございます、アドリアン様」
エレオノーラは微笑み、静かに言った。
「私も、あなたにお会いしたいと思っていました。……明日、私はこの王宮を出ます。その時、これからのことを、私からお話しさせてください」
アドリアンは彼女の意志を尊重し、無理に距離を詰めず、ただ深く頷いて同意した。
そして、第四十七日。
エレオノーラが外宮を明け渡す日が来た。
王家の礼装は既に返納し、私物の衣類と蔵書を詰めた箱は従姉の家へ運んだ。今日は自分で選んで仕立てた、落ち着いた濃い青緑の平服を身に纏っている。片手には小さな鞄一つだけ。
王宮の門へ続く石畳の道を歩いていくと、門の傍らで、アドリアンが待っていた。
冬の風が冷たく吹き抜ける中、彼は彼女の姿を認め、静かに手を差し出した。
これまで、彼女は自立のために彼の手を借りることを拒んできた。だが、今は違う。彼女は自分の足で王宮を出て、何者にも縛られない一人の女性としてここに立っている。
エレオノーラは歩みを止めず、彼に近づいた。
そして、差し出されたその大きく温かい手を、今度は彼女自身の意志で、しっかりと取った。
手が重なり合った瞬間、アドリアンの緑灰の瞳がわずかに見開かれ、やがて安堵の光が広がった。
「エレオノーラ」
「私から、交際をお願いいたします、アドリアン」
肩書を捨てた彼女の真っ直ぐな言葉に、アドリアンは彼女の手を優しく握り返した。
「……喜んで」
即座に結婚を求めることも、彼が資金を出して彼女の生活を買い取るようなこともしない。二人はただ、同じ地平に立つ対等な人間として、初めてその手を繋いだのだ。
その日の夜。
エレオノーラは王宮を出て、王都の隅にある小さな借家に身を寄せていた。そこは、母方の縁者であり、ミレア町出身の従姉アンナ・リントの住まいだった。
開業資金の融資などを頼むわけではなく、外宮を明け渡した今夜だけ、一室を間借りさせてもらったのだ。
「まさかあなたが、本当に王宮を出てくるとはね」
三十七歳になる民間人のアンナは、温かいスープを机に置きながら呆れたように笑った。
エレオノーラがスープの温もりに手元をほころばせていると、王宮からの使者が一通の私信を届けてきた。
差出人は、新正妃リュシアだった。
封を開けると、そこには力強い筆致でこう記されていた。
『エレオノーラ様。これまでのお導きに、心より感謝申し上げます。……今度の議会で問われることを、イネスたちと確かめています。お借りした資料には、皆で書き込んだ付箋が増えました』
エレオノーラは、教導室の大きな机を思い浮かべた。あの机を囲み、三人で資料を広げているのだろう。手紙を折り直して鞄へ入れると、冷めないうちにスープへ匙を入れた。
明朝、エレオノーラはこの王都を発つ。
アドリアンも休暇を取り、ミレア町を訪れるという。互いに自費で手配した馬車で、二日かけて同じ町へ向かう。エレオノーラは、自分の鞄に新しい店舗の書類を収めた。




