第25話【離縁裁定、異議期間七日】
セシルが持参した二つの封筒を前に、エレオノーラはまず、自分の名が記された方へ手を伸ばしかけた。
第四十日の昼下がり。
外宮の質素な自室に、典礼局長のセシルが二つの分厚い封筒を持参して訪れた。
一つは、王家婚姻裁定院から届いた『離縁裁定謄本』。
もう一つは、第三十七日の王家議会における確報の全文写しだった。
「ご苦労様です、セシル様」
「本来ならば、教導官を退任されたあなたに公文書をお届けする義務はないのですが。……あの議会で何が決まったのか、あなたには知る権利があると思いましてな」
エレオノーラは礼を言い、先に議会確報の写しを開いた。議決の要旨は当日の速報で読み、第三十八日の官報でも確かめていたが、全文を見るのは初めてだった。
そこには、王が非常備蓄の引当偽装を認め、融資団との未署名の仮合意が破棄されたこと。そして、新たな融資幹事の『公開選定手順』が議決されたこと。さらに、第六十日に予定されている正妃位次変更法の改正案(以後の降格には本人への聴聞と議会同意を必須とする)に対する、国王の裁可方針が詳細に記されていた。降格のたびに王妃府の人員と外交名義を混乱させるわけにはいかないと、王を支えてきた諸侯までが事前審議を求めたという。王は今後の議会運営への協力を得るため、その要求を受け入れていた。
第四十日の今日、本来ならば盛大に開催されるはずだった冬至祝典は、第三十八日の時点で正式に催行中止が公示され、幻と消えている。
王は王位こそ保ったものの、財政上の独断権限を大きく削られ、議会の厳しい監視下に置かれることになったのだ。
「……そうですか。国は、正しい手順で前に進むのですね」
エレオノーラは静かに書類を閉じた。
次に彼女が手に取ったのは、裁定院からの謄本だった。
そこには、彼女と国王との婚姻関係を解消する旨が法的に記されている。だが、この謄本が手元に届いたからといって、すぐに自由になれるわけではない。
裁定の異議期限は、言渡し翌日の第三十八日を第一日として起算し、七日間。つまり、第四十四日の二十四時に異議期間が満了し、翌朝の確定登記をもって婚姻が終わる。それまでは、エレオノーラは法的にはまだ『国王の配偶者』だった。
「王側が新たな法定証拠を見つけて異議を申し立てれば、裁定は覆る可能性があります。ですが、今のところ、裁定を覆す新たな根拠は示されていません。……残る手段は一つだけ」
エレオノーラが呟いた直後、外宮の廊下がにわかに騒がしくなった。
ノックの音と共に現れたのは、他でもない国王レオナール本人だった。近衛兵を室外に留め、彼はエレオノーラの前に立った。
下がろうとしたセシルを、エレオノーラは目で留めた。王は壁際に残った典礼局長へ一瞥をくれたが、そのまま彼女に向き直った。
「……陛下」
「エレオノーラ」
議会での追及と疲労のせいか、レオナールの顔には深い影が落ちていた。彼は傲慢な王としてではなく、傷ついた一人の男のような瞳で彼女を見つめた。
「議会の記録は読んだだろう。私は、港の投資も、冬の備蓄も、すべて国を思ってのことだった。だが、やり方を間違えた。……私は今、議会からも孤立している」
レオナールは一歩、エレオノーラに近づいた。
「君が必要だ。君のその正確で隙のない実務能力が、今の私には不可欠なのだ」
「私はすでに教導官を退任し、王宮の公務からは離れております」
「教導官としてではない! ……正妃としてだ」
その言葉に、エレオノーラは息を呑んだ。
王は、本気で彼女を正妃の座に戻そうとしているのだ。
「裁定はまだ確定していない。君が今、自分の署名で『申立取下書』を裁定院に提出すれば、あの離縁裁定は失効する。そうすれば、私は君を再び正妃として迎えることができる」
レオナールは、切実な声で語りかけた。
「思い出してくれ、エレオノーラ。私たちが結婚したばかりの冬を。君が酷い熱を出して倒れた時、私は政務を放り出して、君のベッドの傍らで夜通し水を運んだ。あの時、君は私の手を握って、『ずっとお側にいます』と言ってくれたではないか」
その記憶は、エレオノーラの胸の奥に封じ込めていた、優しく甘い痛みだった。
彼が嘘をついているわけではない。確かにあの頃、彼には不器用な優しさがあった。彼女を思いやる夫としての顔があった。
エレオノーラの灰青の瞳が、一瞬だけ揺らぐ。
もしここで取下書に署名すれば、彼女は再び王宮の頂点に立ち、彼と共に国を立て直すという『美談のヒロイン』になれるかもしれない。
だが。
彼女は、その八年後に起きた事実を、冷徹な理知で思い返した。
彼が夜通し水を運んでくれた手は、八年後、彼女の過酷な労働を手放さず、都合よく「華がない」と切り捨てて身分だけを奪い取る手になった。その残酷な事実を、あの日の甘い記憶で相殺することはできない。
「……私が正妃に戻れば、今度はリュシア様が側妃へ降ろされることになりますね」
エレオノーラの静かな問いに、レオナールは口ごもった。
「彼女は、私が降格された時のように、また理不尽に身分を奪われる。あの影響聴聞儀で見事な手腕を発揮した彼女を、あなたはご自身の都合で再び裏方に追いやるおつもりですか」
「改正法が通れば、もう私の宣告だけでは君を戻せない。だから、今なのだ。君が戻れば、諸侯にも体制を立て直せると示せる。リュシアには審査会を続けさせるよう、議会と話す」
「議会の反発も、リュシア様の気持ちも、私が戻れば収まるとお考えなのですね」
王は答えず、彼女の顔を見た。その沈黙の中に、また自分がすべてを取り繕う役目を期待されていると、エレオノーラは感じた。
「それをお望みなら、私を降ろしたあの日と、何も変わっていらっしゃらない」
エレオノーラは、はっきりと拒絶の意思を示した。
かつての自分と同じように切り捨てられようとしている女性を犠牲にしてまで、王の隣に戻る気はない。
「私は立会人のセシル様の前で、正式に回答いたします。私の離縁の意思に変更はありません。申立取下書は、決して提出いたしません」
その冷ややかな宣告に、レオナールの顔から期待の色が完全に消え失せた。
法定の新たな証拠がない以上、彼が離縁を覆すための唯一の手段は『エレオノーラ本人の情に訴えて取下書を書かせること』だけだった。それを拒絶された今、彼にはもう、彼女を法的に縛り付ける術は何一つ残されていない。
王は絶望と怒りが入り混じったような目つきで彼女を睨みつけ、何も言わずに部屋を立ち去った。
扉が閉まり、外宮の自室に静寂が戻る。
エレオノーラは微かに震える手で、自室の机に向かった。
未練が完全に消え去ったわけではない。八年間連れ添った夫への情は、紙切れ一枚で断ち切れるほど軽いものではなかった。
だが、未練があっても、過去の優しさにすがりたくなる弱さがあっても、彼女は自分の意志で離れることを選んだのだ。
机の上には、母の故郷であるミレア町の地図と、小さな実務塾を開くための貸店舗の図面が広げられていた。
エレオノーラは、自身の私費である四百銀冠の財産から、貸店舗の手付金を支払うための送金書面を整えた。
ふと、彼女の脳裏に、ノルテ公国の特命外交官アドリアンの真摯な横顔が浮かんだ。
砂糖壺へもう一度手を伸ばした彼の指を思い出し、今は思い出すだけにした。会って話したいことはある。けれど、まだ書きかけの送金書面が目の前にあった。
エレオノーラは宛先を確かめ、自分の名を記した。
時計の針が進む。
王側は第四十四日の二十四時まで、まだ異議を申し立てる時間がある。
エレオノーラは取下書を書かず、ただ静かに、そして毅然と、自分を縛る最後の鎖の期限が過ぎるのを待ち続けていた。




