第22話【妻を必要とする理由】
法廷に持ち込まれた歓迎状には、まだエレオノーラの名があった。
第三十三日。王家婚姻裁定院の法廷は、傍聴席を埋め尽くす貴族や官僚たちの熱気と、冷ややかな好奇心に満ちていた。
証言台に立つエレオノーラに対し、国王レオナールの代理人を務める法務官が、うやうやしく、だが底意地の悪い笑みを浮かべて問いかけていた。
「申立人エレオノーラ殿。あなたは確かに教導官を退任されたかもしれない。だが、第一日の降格直後には、外国使節団への歓迎状に旧正妃名義が残っていた。その名義上の責任は、いまだあなた個人に帰属しているのではないか? 未整理の対外的な義務がある以上、離縁は延期されるべきだ」
それは、法的に一応の形を整えた引き延ばし工作だった。
さらに代理人は、言葉を重ねた。
「国王陛下は、あなたの八年間の労を深く評価しておられます。確かにあなたは、華やかな表舞台の王妃としては不足があったかもしれない。しかし、裏方としての確かな適性と有能さは、このアルデイン王国にとって不可欠なのだ。妻として、裏から国を支え続けることこそが、あなたの役割ではないか」
傍聴席から、ひそひそとした囁き声が漏れる。
『華がない』。
降格の日に浴びせられたその呪いのような言葉を、公開の法廷で再び蒸し返されたのだ。それは、女としての自尊心を深くえぐる、残酷な精神的圧迫だった。
エレオノーラは証言台の縁を握りしめた。指先が微かに白くなり、小さく震えているのが自分でも分かった。
感情に任せて叫び出したい衝動を飲み込み、彼女は手元の鞄から数枚の書類を取り出し、書記官を通して主席判事キーンの元へ提出した。
「……反証いたします。私が引き受けた個人の外交債務は、存在しません」
エレオノーラの声は、最初は少しだけ震えていた。だが、言葉を紡ぐごとに、その声は冷徹な実務者の響きを取り戻していった。
「提出した第一の書証は、第三日に外国使節団へ交付済みの『正式更正票』の写しです。これには典礼局の公印と、外交局の送達番号が付与されております。変更後七日以内という法定の期限内に、主催名義の変更は各国へ正式に伝わっております。そして第二の書証は、第二十五日から第三十日までに私が典礼局長セシル殿へ提出した『署名権限表』と『引継ぎ記録』、並びにその受領簿です」
キーン主席判事が、提出された書類を鋭い目で確認する。
「第三の書証は、迎賓費用の支出決定書と未払分の引継明細です。債務者はいずれも王妃府で、支払担当は財務局です。私個人が保証した費用はありません」
エレオノーラは、費目ごとに記された担当部署と受領印を示した。未払いの費用が残ることと、自分の婚姻を続けることは、別の話だった。
「対外的な儀礼の義務は、あくまで王国という国家機構と、王妃府という公的部門が負うものです。私個人の保証債務ではありません。これらの引継ぎが正規に完了している以上、『未整理の外交債務』を理由とする離縁の延期は、法的に成立いたしません」
王側代理人は反論の言葉を失い、顔を歪めた。
エレオノーラが初日から契約にこだわり、権限の境界を明確にし、部下へ実務を委譲し、すべての記録を公文書として残してきたこと。その八年分の有能さが、今度は彼女自身を王から解放するための、完璧な盾となって法廷に提示されたのだ。
主席判事は代理人へ、個人保証の存在を示す追加の書証があるか尋ねた。代理人は歓迎状の控えへ目を落としたまま、すぐには答えなかった。
「……それに」
エレオノーラは、王側代理人を真っ直ぐに見据えた。
隠していた弱さを、自らの口で切り開くために。
「『華がない』という陛下の宣告は、いまだ私の耳から消えません」
法廷が水を打ったように静まり返った。
エレオノーラは言い淀み、一度深く息を吸い込んだ。証言台を握る手が、先程よりも強く震えている。
「私は八年間、華やかな装飾の代わりに、予算を削り、徹夜で書類を読み、裏から国の穴を塞ぐことばかりに心血を注いできました。私は……華がなかったのではなく、華で測られない仕事をしていたのです。……ですが」
彼女の灰青の瞳が、法廷の空間を射抜いた。
「あの地味で目立たない仕事を、誰にも認められない惨めな労働だと、一番恥じていたのは……国王陛下だけでなく、私自身でもあったのです」
それは、完璧な元王妃という重い仮面を脱ぎ捨てる、血を吐くような告白だった。
王から受けた扱いが、自分の責任になるわけではない。それでも、自らの仕事を誇れるかどうかまで、王の評価に委ねていた。
「ですが、私はもう、自分の仕事に恥じ入ることはありません。私には、私の仕事の値札と、境界線があります。ですから、私はもう、陛下のための都合の良い『裏方の妻』には戻りません」
エレオノーラの震えは、いつの間にか止まっていた。
キーン主席判事は、静かに書類の束を揃え、重々しく口を開いた。
「典礼局の受領印、並びに外交局の送達通知が揃っている事実を確認した。合議体として、王側代理人が主張する『未整理の外交債務』の存在は認められないと整理する。本件の事実認定は十分であると判断し、後日、裁定の言渡しを行う」
法廷の閉会が告げられた。
王の引き延ばし工作は完全に打ち砕かれた。降格当日の教導契約の締結と、その後の徹底した引継ぎが、ここでついに彼女を法的に救ったのだ。
傍聴席の貴族たちがざわめきながら退席していく中、エレオノーラは静かに法廷を出た。
廊下を歩きながら、彼女はふと、傍聴人たちの顔ぶれを思い返した。
そこには、ノルテ公国の特命外交官、アドリアン・フェルスの姿はなかった。
彼が傍聴席にいたら、きっとその顔を探していただろう。だが今日、彼女が話し終えるまで待っていたのは、判事と、自分の言葉を記す書記官だった。
自分の判断を、最後まで自分の声で伝えられた。
彼の不在を、そのように受け止めたいと思った。寂しくないわけではない。けれど、今の選択を彼の返事に預けずに済んだ。
エレオノーラは鞄を持ち直し、王宮へと続く道を歩き出した。
だが、その帰り道。
王宮の前庭に設置された公式の掲示板の前で、群衆が騒ぎ立てているのが見えた。
監査院の紋章が押された、新しい官報の貼り紙。
エレオノーラが近寄ってその文面に目をやると、そこには不穏な文字が躍っていた。
『国王陛下名義で発出された冬至祝典・王室行事前払費(引当)の指示書について。近く、監査院より国庫法照合に関する中間結論の公開要旨を発表する』
非常備蓄に関わる法条と照合されている、あの異常な引当指示。
何のために出されたものだったのか。その検証結果が、ようやく公の場へ出ようとしていた。




