↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「華がない」と王妃を降ろされましたが、新王妃の教育係は有料です  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/28

第21話【もう、王宮の仕事を背負わない】

初めて職務予定のない朝、母の懐中時計の針を見ても行くべき執務室はない。


 第三十一日。


 外宮の自室で目を覚ましたエレオノーラは、いつもなら既に身支度を終えている時刻に、まだ寝台の上にいた。


 枕元のサイドテーブルに置かれた銀色の懐中時計が、静かに時を刻んでいる。昨日で王妃教導官の契約は満了し、その鍵も任命札もすべて返納した。今日から彼女は、何者でもない。ただの『離縁審理を待つ、名ばかりの側妃』だ。


「エレオノーラ様。おはようございます」


 ノックと共に部屋に入ってきたのは、かつて正妃時代から仕えていた旧付き人の侍女だった。彼女の腕には、見慣れた儀礼の相談書が数冊抱えられている。


「典礼局の若い係から、次回の外国使節の席次について、いくつか確認したいことがあると……」


「セシル様の窓口へお戻しください。引継ぎの受領簿もあります。私の仕事は昨日で終わりました」


 エレオノーラは、相談書を受け取らずに答えた。


 侍女は戸惑ったように瞬きをした。王宮の人間はまだ、エレオノーラが結局は裏から助け舟を出してくれると信じているのだ。


「で、ですが……。それと、王宮の総務局からご提案が届いております。エレオノーラ様が今後、王宮の外で私塾を開かれるご意向だと伺いまして。その塾を『元王妃の直轄名誉職』という扱いにし、王室からの後援をつけるのはどうか、と」


 一見、親切な提案だった。だが後援を受ければ、また王室からの相談を断りにくくなる。エレオノーラには、新しい肩書で引き留めるための話に思えた。


 エレオノーラは寝台から降り、毅然として首を振った。


「その提案も辞退します。私は私個人の名で事業を興します。王室の後ろ盾は一切不要です」


「……かしこまりました」


 侍女が退出した後、エレオノーラは静まり返った部屋で小さく息を吐いた。


 誰からも命令されない朝。急いで着替える必要もないのに、耳は廊下の足音を追っていた。


 ふと、視線が机の隅に向けられる。


 昨日、教導官を退任した際、外交局を経由して回覧された公務名簿。そこに記されていたノルテ公国の特命外交官アドリアン・フェルスからの公式な祝意以降、彼からの新しい挨拶は届いていない。


 もう会議の席で顔を合わせる予定もない。茶を飲みながら笑った時間を思い出し、次に会ったら何を話そうと考えかけたところで、彼女は今日の呼出状へ目を戻した。


「……感傷に浸っている暇はありませんね。私には、私の戦いがあります」


 エレオノーラは己を奮い立たせ、手元に用意した書類の束を鞄に詰めた。


 今日は、王家婚姻裁定院で最初の形式審理が開かれる日だ。


 王家婚姻法第十八条に基づく離縁申立ては、受理から三十日を経て審理が開始される。


 裁定院の冷たい石造りの法廷に、エレオノーラは一人で足を踏み入れた。正面には任期保障された三人の判事が座り、向かいの席には国王レオナールの代理人が陣取っている。


「これより、申立人エレオノーラと国王レオナール間の、第十八条に基づく婚姻解消請求の形式審理を開始する」


 主席判事マルセル・キーンの厳格な声が響いた。


 形式審理の目的は、婚姻関係の解消にあたって、子、扶養、共有財産などの未処理の争点がないかを確認することだ。ここで実体的な争点が残っていれば、裁定は延期される。


「申立人。子の監護、並びに婚姻上の扶養請求について申し立てはあるか」


「子はありません。また、私から国王陛下への扶養請求も一切いたしません」


「共有財産の帰属については」


「目録の照合を済ませており、未清算の共有財産はありません」


 エレオノーラは鞄から数枚の書類を取り出し、書記官へ提出した。


「ここに提出するのは、私の母からの婚前相続財産である四百銀冠相当の証書。そして、降格後に王妃府の備品や装飾品を返納したことを証明する、国庫受領簿の写しです。私の私物は、衣類と書籍、そしてこの懐中時計のみです」


 判事たちが書類に目を通した。王側代理人にも、相続証書、返納品の受領簿と私物目録が回された。扶養と財産の整理に異議はないと、代理人は答えた。


「加えて、教導官として得た給与百七十四銀冠の支払決定書を提出します。これは婚姻財産ではなく、独立した公職給与の債権として別記されるべきものです。私から王庫に対する、これ以上の追加清算請求はいたしません」


 エレオノーラは、自らの手で婚姻と公務、そして財産を完全に切り離した。王の金には一滴も頼らずに生きていくという、不可逆の証明だった。


 さらに彼女は、自らの名で起案した『民間の実務塾の事業計画書』と、開業候補地の登記閲覧を公的窓口へ依頼した控えを添えた。王室の庇護がなくとも、自立して生活していく基盤があることの提示である。


 キーン主席判事は深く頷いた。


「確認した。本件離縁審理を受理済み案件として正式に開始し、子、扶養、共有財産に関する未処理の争点はなしと記録する」


 順調な滑り出しだった。これで、あとは数日後の実質弁論を経て、裁定言渡し後の七日間の異議期間を待つだけになるはずだった。


 しかし、エレオノーラが安堵しかけたその時、向かいの席に座る国王の代理人がゆっくりと立ち上がった。


「異議あり。裁判長、申立人は財産的な争点はないと申しましたが、王家婚姻法に基づく離縁延期の要件には『配偶者本人が引き受けた外交上の債務』が含まれます」


「それが何か」


「申立人が教導官を退官したという事実だけでは、妻としての未完の仕事は消えません」


 代理人は、古びた羊皮紙を一枚、高く掲げた。


「これは、第三日の『入城歓迎』に先立ち、降格前に外国使節へ送られた歓迎状の控えです。発送時の主催者として、申立人の名前が記されている。この歓迎状に基づく外国への迎賓責任と、それに付随する未処理の対外費用について、申立人はまだ完全に責任を果たしておりません!」


 それは、法的な揚げ足取りだった。


 国王は、エレオノーラの八年間の有能さを手放すまいと、彼女が善意で引き受けていた名義上の責任を盾に取り、離縁の確定を引き延ばそうと画策してきたのだ。


(……やはり、簡単には逃がしてはくれませんか)


 エレオノーラは灰青の瞳を細め、代理人が突きつけてきた『外交上の債務』という言葉を冷たく見据えた。


 形式審理はここで打ち切られ、この『未整理の外交債務』が存在するかどうかの実質的な証明は、二日後の第三十三日に開かれる主要弁論へと持ち越されることになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。