第20話【最終授業は、わたくしなしで】
最後の教導日、突然の使節日程変更と地方議員の苦情が同時に届いた。
第三十日の朝。王妃教導官の契約満了日である今日、教導室には開始早々から二つの火種が持ち込まれていた。
一つは、王都に滞在中の外国使節団から、明日午前に予定された実務協議へも王妃本人の出席を求める変更依頼。もう一つは、同じ時間に面会を申し込んでいた内陸部の地方議員から届いた、先の聴聞儀に参加できなかったことへの強い苦情の書状である。
外交の顔を立てるか、国内の不満を宥めるか。どちらを優先しても角が立つ状況だった。
エレオノーラの指先が、反射的に二つの書類へ伸びそうになる。かつて正妃だった頃からの、すべての問題を一人で素早く処理してしまおうとする癖が、いまだに彼女の体に残っていたのだ。
しかし、彼女はすんでのところで手を止め、書類をリュシアの前に並べた。
「リュシア様。これらが本日の課題です」
「……同時に対応するのは不可能です。エレオノーラ様、わたくしはどちらを優先すべきでしょうか。最後に一度だけ、どうか『正解』を教えてください」
リュシアは不安げに琥珀色の瞳を揺らし、教導官に助けを求めた。
ベルク港の件で大きく成長した彼女だが、だからこそ自らの判断が国に与える影響の大きさを知り、決断を恐れるようになっていた。
加えて、今朝方には国王レオナールから「教導官の期間を延長し、引き続きリュシアを補佐せよ」という正式な残留命令の打診が、教導室に届いていた。王はまだ、エレオノーラを手放す気はないらしい。
リュシアがそれに甘えようとするのも無理はなかった。
だが、エレオノーラは冷徹な教導官の顔を崩さなかった。
「一緒に条件を確かめましょう。ただ、どちらにどう応じるかは、リュシア様に決めていただきます」
「ですが……」
「お考えください。使節の変更依頼を断った場合、外交上の不利益は何か。地方議員の苦情を後回しにした場合、王室への信認はどれほど損なわれるか。……その条件の分岐を整理し、どう動くかを決めるのは、王妃であるあなたです」
エレオノーラは条件の分岐を問い返すだけに留め、それ以上は一切口を出さなかった。
教導室に重い沈黙が降りる。
リュシアは二つの書類を何度も見比べ、やがて小さく息を吸い込んだ。
「……マリナ。外国使節団へは、明日午前の協議には、わたくしも出席すると伝えてください。ただし午後は王妃府の予定を動かせませんので、終了時刻を確認すること」
「はい、殿下」
「イネス。地方議員の苦情については、午前はわたくしが直接伺えません。予定の時刻に調整の場を設け、王妃府からの『議長代理』として、典礼局長セシル様を指名します。その旨の公文を作成しなさい。代理を置くことを議員にも伝え、わたくしへの問いは午後に報告を受けます」
リュシアの声には、もう迷いがなかった。
外交の体面は最低限守りつつ、国内の不満には『議長代理』という正式な権限を与えた官僚をあてることで、物理的な時間不足を解決したのだ。
「この判断で、よろしかったでしょうか」
リュシアがエレオノーラを振り返って問う。
その問いに対し、エレオノーラは静かに首を振った。
「権限を越えず、どちらの相手にも応答する形になっています。あとは先方への確認を。結果が想定と違えば見直し、その説明を引き受けるところまでが、あなたの判断です」
リュシアは頷き、返答を待つ二人の補佐官へ向き直った。
午後。教導室に典礼局長セシルが訪れた。
彼はリュシアからの議長代理の指名公文を受け取ると、恭しく一礼した。
「承知いたしました、正妃殿下。議員の調整は、典礼局が責任を持って当たります」
「頼みます、セシル様」
用件を終えたセシルは、エレオノーラの方へ向き直った。
「エレオノーラ殿。国王陛下より、未承認の儀礼書式の作成など、いくつか期限のない残務があなた宛てに下りてきていますが」
「すべてお返しします。私の契約は本日で満了します。明日以降の業務は一切お引き受けできません」
エレオノーラが即答すると、セシルは苦笑しながら頷いた。
「でしょうな。すでに未承認の残務はすべて典礼局長権限で拒否し、陛下へ突き返してあります。あなたの抜けた穴は、もはや一個人の自己犠牲では埋められない。典礼局内に、若手官僚向けの常設研修部門を設ける準備を始めましたよ」
「それは重畳です。王宮が一つ、正常な機能を取り戻しましたね」
セシルから手渡されたのは、一枚の公的な証書だった。
『教導給与百七十四銀冠・支払決定書』。
二十九暦日、日額六銀冠。有給休務日も含め、彼女が引いた職務の境界線が、正当な公職の対価として認められた証だった。実際の現金の支給は、満了後十五日以内、第四十五日までに行われる。
エレオノーラはその証書を受け取り、深く頭を下げた。
荷物の片付けを終えたエレオノーラの元へ、外交局から一通の回覧文書が届いた。
それは、各国の公館へ定期的に送られる『王宮公務名簿』の更新通知に対する、公式な返答の束だった。その中の一枚に、ノルテ公国からの短い祝意が記されていた。
『教導官エレオノーラ・ヴァルト殿の任期満了による退官を承知した。その卓越した職務遂行と、我が国との公正な実務関係の構築に対し、公国を代表して祝意を表する。 特命外交官 アドリアン・フェルス』
退官を知らせる公文の一枚に、自分の仕事が確かに残っている。最後の授業を終えた実感が、遅れて胸に満ちてきた。
エレオノーラはその署名を指先でそっとなぞり、微かに微笑んだ。
夕暮れが王宮を赤く染める頃。
エレオノーラは教導室の前に立ち、首から下げていた銀色の鍵を外した。
任命札と、数々の公文の写しと共に、その鍵をリュシアへ差し出す。
「これまでのお役目、お疲れ様でした。……エレオノーラ様」
リュシアは両手でそれらを受け取った。彼女の瞳には微かな涙が光っていたが、もうすがるような弱さはなかった。
「明日の朝も、この扉はわたくしが開けます」
「ええ。あなたなら、立派にこの扉を開けられるはずです」
エレオノーラは一歩下がり、深い礼をとった。
リュシアは静かに頷き、教導室の奥へ戻っていく。そして、自らの手で重い扉を閉ざした。
カチャリ、と鍵がかけられる音が、薄暗い廊下に響いた。
側妃という婚姻身分だけが残ったエレオノーラは、外宮の自分の部屋へ戻るべく、一人で廊下に取り残された。
手の中には、もう何の鍵もない。王宮の重圧も、他人の人生を背負う責任も、何一つ残っていない。
「……こんなにも、軽かったのですね」
エレオノーラは、初めて『返した鍵の重さ』を実感していた。
すべてを手放した彼女の肩は、驚くほど軽かった。だが同時に、誰からも頼られないという、ひんやりとした孤独が足元から忍び寄ってくるのも感じていた。
明日には、王家婚姻裁定院での離縁の形式審理が始まる。
王宮の仕事を背負わなくなった彼女が、本当の意味で自由になるための、最後で最大の戦いが待っていた。




