第19話【担保になりかけた非常備蓄】
第二十六日の有給休務が明けた第二十七日の朝。教導室には、二つの大きな知らせが同時に飛び込んできた。
一つは、ベルク港からの吉報。昨日午前に発った早馬が王都へ到着し、孤立していた残る二つの村へも、第二十五日中に食糧が到達したという報告だった。
ノルテ公国の公用船『白鴎号』が沖から河口の集積所へ穀物を運び込み、そこから地元の小船主たちが浅い水路を縫って村へ配送する。その完璧な連携により、三村全ての配食が成功したのだ。
リュシアは報告書を握りしめ、深く、深く安堵の息を吐き出した。これで彼女の行った二十四銀冠の救恤は、正当な成果を上げたことが証明された。
だが、もう一つの知らせは、王宮を根底から揺るがすものだった。
「エレオノーラ様。監査院が、本日の朝付で『保全命令の公示』を出しました」
補佐官のイネスが、血の気を失った顔で一枚の公報を持ってきた。
そこには、財務長官バスティアンの申し立てにより、ある公文書の原本を監査院が保全したという事実が記されていた。保全対象の費目名と額面は、誰の目にも触れる形で堂々と公示されていた。
『冬至祝典・王室行事前払費(引当)/六万銀冠相当』
その桁外れの数字に、リュシアは言葉を失った。
六万銀冠。昨日まで手元の指示書にだけあった額面が、今は誰もが読める公示に載っている。
「これは、一体……?」
「第二十四日に典礼局へ届き、翌日に私へ回覧された『第四十日・冬至祝典の準備を進めよ』という指示書に関連するものです」
エレオノーラは静かに答えた。セシルからの連絡書によれば、バスティアンは十九日から二十一日にかけて副署を拒否していた。典礼局への準備指示をエレオノーラの照会で知り、昨日、監査院へ原本の保全を申請したという。
「イネス。典礼局に回覧された準備指示の規模と、この公示された額面を照合しなさい」
「……はい。事前の祝典見積もりはせいぜい数百銀冠です。六万銀冠などという引当は、明らかに異常です」
イネスが震える手で台帳を確認する。
六万銀冠を、祝典の何に充てるつもりだったのか。副署がないのに準備を先行させたのはなぜか。公示だけでは、なお答えは見えなかった。
「陛下は『まだ財務の副署前であり、実際に国庫から金や物資は動いていないのだから、何も違法ではない』と主張されるでしょうね」
「違法ではないのですか……? これほど不自然な数字の操作をしようとしたのに」
「監査結果が公表されない限り、実際に担保権が設定されたのかどうかは断定できません」
エレオノーラはリュシアを真っ直ぐに見つめた。
「リュシア様。ここから先は教導官としての最後の実践です。監査の非公開記録には絶対に触れてはなりません。推測で王を断罪することも許されません。我々は、公開された事実と法定の手続きのみで、この事態を検証します」
エレオノーラは、第二十五日に自分の名で典礼局長宛てに出した『公文照会』の控えを机に置いた。
裏から手を回して王の機密を暴露し、告発の英雄になるような真似はしない。彼女はあくまで、典礼局に正規に下りてきた指示と、監査院が公開した公示との『説明のつかない差』を確認するため、資料を揃えた。セシルはそれを受け、典礼局長の名で監査院へ照会を送った。
「国庫法第四十四条を開きなさい。そこには何とありますか」
「『議会の同意を迂回する目的で、虚偽の費目を起案・指示すること自体を禁ずる』……」
「その通りです」
エレオノーラはペンでその条文を指し示した。
「実際に出納されたかどうかとは、別に問われることがあります。副署前であっても、議会の統制を迂回するために虚偽の費目を指示したと認められれば、その行為自体が違反となります。今回がそれに当たるかは、監査で確かめることです」
リュシアは息を呑んだ。
彼女自身が行った二十四銀冠の救恤は、法定の上限を守り、使途を公開し、同日に監査院へ報告するという『適法な支出』だった。第二十二日の祝宴も、既決の宮廷行事費から支払われた合法な支出だ。
それらの支出と、今回疑われている引当の指示は、区別して調べなければならない。
「監査院は、正式な副署がないことを公示しています。この指示は発効していません。ただ、別の出納や担保設定までなかったと言えるかは、調査結果を待ちます」
「では、議会は……」
「王の『資金調達』という政策目的そのものは否定しないでしょう。ですが、禁じられた費目偽装を指示した疑いがある以上、議会への説明は必要になります」
リュシアは条文の横に、『確認済みの事実』と『監査を待つ事項』を分けて書いた。
同日の午後。
外交局で開かれた定例の公開連絡会議の席に、エレオノーラは教導官として陪席していた。
円卓の向こうには、ノルテ公国の特命外交官アドリアン・フェルスが座っている。
王宮内は予算偽装の監査公示の件で蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。だが、アドリアンは、アルデインの国内騒動に対して探りを入れるような真似は一切しなかった。彼はただ、第二十三日に決定した公用船貸与に関する事後報告を本国へ送ったこと、そしてその返答を待っているという事実だけを、事務的な口調で報告した。
「事後報告への本国の返答は、急使を用いても往復六日以上を要する。それまでは、公用船の運用は現地の港務局の指示に委ねる」
会議が終わると、先日約束した通り、書記官や補佐官たちと控えの間で茶を飲んだ。エレオノーラは隣の椅子に鞄を置きかけ、慌てて膝へ戻した。アドリアンがそこへ腰を下ろす。
「砂糖は、お使いになりますか」
「一つ、いただけますか。公館では、つい三つ入れてしまうので」
「三つも?」
思わず聞き返すと、彼は小さく笑った。
「今日は皆さんの前ですから、一つに」
「では、私は二つにします。お一人で我慢なさることはありません」
自分でも意外な言葉が出た。アドリアンは一瞬目を丸くし、それから砂糖壺へもう一度手を伸ばした。
本国から何と返ってくるのか、心配は消えない。それでも、難しい議論を離れて彼と笑える時間が、エレオノーラには嬉しかった。マリナが次の予定を告げるまで、茶はまだ温かかった。
教導室に戻った後、エレオノーラは監査院が貼り出した公示の末尾に、小さく付け加えられた一文を見つけた。
『本件について、国庫法第四十二条ならびに第四十四条と照合中』
第四十二条は『非常備蓄の担保設定・資産区分変更には王家議会の事前同意を要する』という規定だ。
財務長官の署名がない命令書に、なぜ国王の国璽だけは押されていたのか。
非常備蓄に関わる条文まで照合されている。六万銀冠という数字を見つめても、その先を推測だけで埋めることはできなかった。エレオノーラは、公示を照会の控えと共に綴じた。




