第18話【あなたのためには、働けません】
教導室の机に置かれた命令書には、終わりの日付がなかった。
第二十五日の朝。広報官が持参した命令書には、王室の赤い封蝋が押されていた。
そこには『ベルク港の緊急事態が終息するまで、教導官エレオノーラの任期を無期限に延長する』と記されている。
リュシアの顔に、わずかな安堵の色が浮かぶのをエレオノーラは見逃さなかった。
昨日、リュシアは立派に自分の言葉で会見を乗り切った。だが、まだ港からの確報は届いていない。もし配食が失敗していれば、自分はどうなるのかという恐怖が、二十四歳の新正妃の心を締め付けているのだ。
「エレオノーラ様。……どうか、もう少しだけ。この嵐が過ぎ去るまで、わたくしを導いてはいただけませんか」
すがるような声だった。
エレオノーラの胸に、ちくりと痛みが走る。この不慣れな王妃を嵐の只中に置いて去ることは、教え手としての罪悪感を煽った。
さらに、王の使いとして命令書を持ってきた広報官が、冷ややかな声で付け加える。
「それに、あなた様が以前に旧正妃名義で出された対外的な書類の義務が、まだ完全に片付いているわけではないでしょう? それを放り出して逃げるというのであれば、陛下も黙ってはおられませんぞ」
情と、責任。二つの鎖で彼女を絡め取ろうとする王の常套手段だった。
だが、エレオノーラは揺るがなかった。彼女は引き出しを開け、あらかじめ用意してあった一冊の分厚いファイルを机の上に置いた。
「広報官殿。私の契約は第三十日で満了します。延長には合意いたしません」
「なんだと?」
「そして、旧正妃としての職務は、期限までに公文で引き継ぎます。……セシル様」
呼ばれて教導室に入ってきたのは、典礼局長のセシルだった。
エレオノーラは彼にファイルを差し出した。
「第二十五日から第三十日までの『署名権限表』。第三日に外国使節へ交付し、送達番号を得た『既送達更正票』の控え。そして、後任への『引継ぎ記録』です。典礼局として、受領のサインをお願いします」
セシルは無言でファイルを受け取り、中身を確認して公印を押した。
「確かに受け取った。以降の外交儀礼に関する実務は、典礼局が完全に引き継ぐ」
「旧名義の更正は済んでいます。残りの職務も、この受領簿で引継先を確認できます。もし後任が対応不能であるならば、それは私が残業して埋めるべき問題ではなく、正規部門が人員を増やすべき行政の課題です。……違いますか?」
広報官は反論できず、忌々しげに舌打ちをして部屋を出て行った。
王が「妻に任せていたから」と言い逃れようとしていた口実を、典礼局長を巻き込んだ公式な引継ぎ記録によって完全に封じ込めたのだ。これらの記録があれば、第三十一日に始まる離縁審理でも、誰が職務を引き継いだかを示せる。
エレオノーラは、力なく俯くリュシアに向き直った。
「リュシア様。私がいつまでも隣にいれば、あなたはいつまでも『教導官に確認しなければ決断できない王妃』のままです。昨日の会見で、あなたはご自身で説明しました。まだ一緒に確かめることはあります。残る五日で、私がいなくても担当の者へ相談できる形に整えましょう」
冷たい突き放しのように聞こえるかもしれない。だが、それはエレオノーラがリュシアへ贈る、最高の賛辞でもあった。リュシアは小さく頷き、涙をこらえるように前を向いた。
昼の休憩を長く取り、夕刻の連絡を待つ勤務に分けた。六時間の終わりが近づく頃、ベルク港から、待ちに待った早馬の確報が王都へ届いた。
『第二十四日夕刻、第一村における炊き出しの配食を開始。滞りなし』
教導室に歓声が上がる。リュシアの即断が、まずは一つの村を飢えから救ったのだ。残る二つの村への配食成否はまだ不明だが、暗闇の中に確かな希望の光が差した瞬間だった。
「第一村の確報が届いたそうですね」
夕刻の外交局前の廊下で、アドリアンが声をかけてきた。隣には公館の書記官が立ち、エレオノーラの後ろではマリナが書類を抱えている。
「ええ。二村への配食は本日午前の予定でしたが、そちらの確報はまだです」
「無事に届いているとよいのですが」
アドリアンは、彼女が鞄の留め具を何度も掛け直しているのを見て、少し声を和らげた。
「少し、お茶でも――」
言葉が途切れた。彼は書記官の方へ視線を戻してから、言い直した。
「次の公開連絡会の後に、皆さんで一息つければと思ったのです」
「……ええ。明日は休務をいただいておりますので、明後日の会議の後でしたら」
答えたエレオノーラは、胸に浮かんだ期待を静かに押し戻した。彼と二人で、この数日間の重圧を言葉にできたら。そう願った自分がいた。
けれど彼女はまだ国王の配偶者で、彼は他国の外交官だ。アドリアンはその先へ誘わず、エレオノーラも引き留めなかった。
彼が去った後、エレオノーラはため息をつき、本日の職務確認の最後の書類に目を通した。
それは、第二十四日に典礼局へ届き、セシルから確認のために回されてきた『国王名義の正規文書』だった。
内容は、第四十日に予定されている『冬至祝典の準備を進めよ』という指示。
エレオノーラは眉をひそめた。この未曾有の水害の最中に、祝典の準備を先行させるなど常軌を逸している。だが、彼女の目を最も釘付けにしたのは、その文書に添付された別紙の数字だった。
『引当予定額:六万銀冠相当』。
冬至祝典の規模とかけ離れた、異常な巨額。それは国家の非常備蓄そのものに匹敵する額だ。
しかし、その文書の末尾にあるはずの『財務長官の副署欄』だけが、不自然な空白のままだった。
(なぜ、この額で準備を進める指示が出ているのに、副署がないのかしら……?)
承認待ちなのか、拒まれたのか。それすら今は分からない。だが、この額を必要とする祝典の仕事は、添付の予定表に見当たらなかった。
エレオノーラは即座にペンを取り、典礼局長宛ての正式な公文照会を作成し、財務長官バスティアンにもその写しを送った。
照会には、確認が済むまで新たな発注を進めないよう求める一文を添えた。王の意図を決めつけるのでなく、まず目の前の指示の根拠を確かめる。そのための署名を、彼女自身の名で記した。




