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「華がない」と王妃を降ろされましたが、新王妃の教育係は有料です  作者: 他力本願寺


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第16話【新王妃は、支払いの行方を隠さない】

泥のこびりついた報告書を開くと、三つの村の名が並んでいた。


 第二十三日の夕方。追報を待つため、この日は昼からの勤務に調整し、外交局の協議で運航案を詰めていた。前日の夕刻にベルク港を出た早馬が王都へ着き、エレオノーラたちは報告書を受け取るため、隣の教導室へ移った。危惧されていた通り、河川の堤防が決壊したのだ。


 昨日から取り寄せた見積もりと配船表は、既に机に並んでいる。エレオノーラは、予測で記していた被災先を報告書と照合した。


 ベルク港の市街に隣接する第一村と、そこからやや離れた二つの村が浸水し、陸路が完全に絶たれたという。幸い、事前の避難誘導により現時点での死者の報告はないが、三村の住民たちは高台や頑丈な建物に孤立し、食糧の不足が差し迫っていた。


 港務局は持ち出せた食糧と近隣の在庫で当座をつないでいたが、追加の食材を継続して買う資金が足りないという。


 机の端には、今朝、国王レオナールから届いた書状も置かれていた。


『民の救済は急務である。新正妃は各部署の要請を取りまとめ、必要な手配を直ちに進めよ』


 要請をまとめよと言うだけで、どの費用を誰が決裁するかは記されていない。各部署の判断が止まれば、前に立ったリュシアがその遅れを説明することになる。エレオノーラは、書状と予算台帳を並べた。


 書状を握りしめたリュシアの手が小さく震える。彼女はすぐにでも王都から食糧を買い集め、馬車を連ねて送り出したい衝動に駆られていた。


「エレオノーラ様。一刻も早く、食糧と資金を港へ……!」


「お待ちください、リュシア様」


 エレオノーラは冷徹な声で制止し、手元の王妃府予算の台帳を開いた。


「王妃に、国費を自由に支出する権限はありません。王妃府が単独で動かせるのは、既決の儀礼費の未使用残高のみです。現在の残額は、二十四銀冠。これが、あなたが合法的に使える全額です」


「たった、二十四銀冠……? それでは、王都から物資を輸送する馬車代すら賄えません!」


「王都から運ぶ必要はありません。馬車は通常でも二日かかりますし、今は冠水した道の先へ入れません。食糧はベルク港の現地で調達します」


 エレオノーラは地図を広げ、港の市街地に隣接する第一村を指さした。


「この二十四銀冠は、法定の災害慰問・救恤費として、三村が二日間を凌ぐための『炊き出しの食材費』に限定して使います。それ以降の継続的な救援や大規模な輸送費は、港務局と財務長官の決裁による正規の災害予算に引き継がせます」


 リュシアはハッと息を呑み、己の権限の限界と、その中で最大限に命を救うための具体的な手段を理解した。


「……分かりました。用意した支払保証書に、この額と相手先を記します」


「はい。使途、相手先、金額を『救恤支出簿』に自筆で記載し、本日中に監査院へ報告してください。王妃の支出は、一銀冠たりとも隠してはなりません」


 リュシアは迷いなくペンを執り、公的な帳簿に自らの判断の全容を書き込んだ。


 支払保証書は、第二十三日夕刻の早馬でベルク港へ送るため、直ちに封じられた。予定どおり発てば、明日の夕方、第二十四日の夕刻には現地へ到着する。現地では港務局の事前連絡により、すでに第一村の炊き出し所と業者が待機している。保証書が到着したその日の夜には、温かい食事が配られる手はずとなっていた。


 しかし、問題が一つ残されていた。


 第一村は港に隣接しているため現地在庫ですぐに配食できるが、孤立した遠い二つの村へは、冠水した道を避けて水路で食糧を運ばなければならない。


 エレオノーラたちは保証書を発送係へ渡し、隣室で続いていた外交局の公開協議へ戻った。


 昼から詰めてきた運航案を、届いた被災報に照らして確定しなければならない。円卓では、孤立した二村への輸送手段について最後の確認が交わされていた。ガルド系列の大型船は依然として動かず、現地の小船だけでは、沖側荷役場に保管されている穀物を安全な河口集積所まで大量に運び込むことができないのだ。


「沖から河口までの輸送を引き受けられる船は、白鴎号以外にはないのか!」


 港務官の悲痛な叫びに対し、商人たちは沈黙した。


 その重い静寂を破ったのは、ノルテ公国の特命外交官、アドリアン・フェルスだった。


「我が国が所有する公用穀物船『白鴎号』を、十日間貸与する」


 その言葉に、会議室がどよめいた。


 アドリアンは立ち上がり、外交局の書記官に向けてはっきりと宣言した。


「白鴎号は現在、ベルク港の沖側荷役場に停泊中である。これをアルデイン港務局の運送指示の下に置き、現地業者から適法に調達された穀物を、河口集積所まで搬送させる」


 それは、見事な連携の提案だった。白鴎号が河口集積所まで運び込めば、そこから先の浅い水路は、地元の小船主たちが安全に二つの村へと配送できる。計画どおり進めば、第二十五日の午前には残る二村へ配食を届けられる。


 だが、アルデインの外交官僚が青ざめた顔で問い返した。


「フェルス特命外交官……! 公用船の貸与は、自国民の救援を想定した訓令のはず。他国の住民を救うために国費で船を動かせば、あなたがノルテ本国で政治的責任を問われることになりますぞ!」


 それは越権行為ではない。だが、文言の解釈を広げた裁量の行使は、本国の議会から「なぜ他国のために我が国の予算を使ったのか」と猛烈な批判を浴びる危険な賭けだった。


 しかし、アドリアンは緑灰の瞳を揺らさず、公開の議事録に向かって静かに言い放った。


「この港は我が国の冬期輸送にもつながっている。救援の遅れで物流と周辺の暮らしが崩れれば、本国にも影響が及ぶ。その判断を記録し、本国へ事後報告する。……私は一度、道を閉じる側にいた。その過ちを繰り返すつもりはない」


 私は一度、道を閉じる側にいた。


 その言葉の奥にある、彼自身の拭いきれない過去の悔恨の輪郭だけが、会議室に静かに響いた。彼は誰かを非難するためではなく、自らの戒めとして、重い政治責任を背負う決断を下したのだ。


 エレオノーラは陪席席で、手元の記録用紙を見つめたまま動けなかった。


 他国のために、彼が自国で矢面に立つ。その事実が、鋭い痛みと温かさを伴って胸を突く。


 だが、今は書き留めなければならない。エレオノーラは貸与条件を確かめ、陪席者の確認欄に署名した。顔を上げた時、彼はもう次の質問に答えていた。


 船の貸与指令も夕刻の早馬に託され、支払保証書と共にベルクへ向かった。追加輸送費は港務局と財務長官が承認し、二日分の炊き出しの後をつなぐ支援も、その正規予算で手配することになった。


 勤務を終える前の初動説明で、疲れの見えるリュシアが「港務局の緊急輸送予算二十四銀冠を、わたくしの判断で出しました」と口にした。エレオノーラは手元の支出簿を示したが、別の質問が重なり、そのまま説明は終わってしまった。


「今の費目名は違います。訂正をお伝えしなくては」


 リュシアも青ざめて頷いた。広報官へ訂正文を渡したものの、最初の説明を聞いて退出した者は既にいた。


 だが、危機は終わっていなかった。


 帰り支度の最中、王都の広報局から不穏な報せが教導室に届いた。


 王妃名義で出された二十四銀冠の支払保証書に対し、説明会にいたガルド組合の広報担当が、退出した者たちへ不穏な話をしているというのだ。


『新王妃は、港湾の緊急予算ではなく、国庫の金を自身の故郷への横流しのために自由に使った』


 悪意に満ちたその噂は、事実を捻じ曲げ、新王妃の正当な判断を『公金の横領』という疑惑へと仕立て上げようとしていた。

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