第15話【船を止めたのは、誰の利益か】
王妃府の床に、濡れた外套から泥の雫が落ちた。
第二十二日の朝。第二十日付の移送拒否の報告を確かめ、翌朝に現地を発ったベルク港務局支所と小船主組合の代表が、早馬で王都へ着いた。会議室に通された男たちは、青ざめた顔で立っていた。彼らの手には、雨で滲んだベルク港の岸壁図面が握られている。
議長席には新正妃リュシアが座り、その後ろでエレオノーラと補佐官のイネスが記録用の羊皮紙を広げていた。エレオノーラたちは王都に留まっており、早馬でも一日を要するベルク港の惨状を知る術は、この男たちの証言と図面だけだった。
「ひどい有様です。港の深水岸壁にはラディア商人組合の大型船が停泊したまま、まったく動こうとしません。理由を問えば『未曾有の水位であり、船と積荷の安全が確保できないため出港を見合わせている』と」
「嘘をつけ!」
港務官の沈痛な報告を遮り、小船主組合の代表が怒鳴り声を上げた。
「俺たちの小船が出せないほど波が高いわけじゃねえ! あいつらは、未承認の『十年独占権』がさも自分たちの既得権であるかのように振る舞い、大船で岸壁を塞いで、他の船が物資を運び出すのを邪魔してるんだ! 積荷を動かさず、飢えさせて値を吊り上げる気だ!」
その言葉に、リュシアが激しく息を呑んだ。
リュシアはガルドの私信を思い出したのか、組み紐を握った。だが、今あるのは食い違う証言だ。エレオノーラは配船図へ目を落とした。
「許せません……! 直ちにラディア組合を糾弾し、港務局の権限で彼らの船を強制退去させなさい!」
リュシアが立ち上がりかけたその時、エレオノーラが背後から静かに声をかけた。
「お待ちください、リュシア様。感情で権限を行使してはなりません」
「ですが、彼らは人の命を何だと思っているのですか!」
「彼らが非道であるかどうかの道徳的判断と、行政の機能は別です。今ここで一方的に彼らを断罪すれば、ラディア側は『アルデインは正当な理由なく他国の財産を侵害した』と主張し、国際問題に発展します。必要なのは糾弾ではなく、誰の船が、何を、どこへ運べるのかという事実の整理です」
エレオノーラはイネスに合図し、白紙の配船表を用意させた。
そして、上京した二者の証言と図面を基に、情報を冷徹に仕分けしていく。
「港務官殿。現在の水位と、ラディアの大型船の喫水線を比較した正確な数値を。小船主殿。あなたの組合の船で、浅い川筋を通って避難先の三村へ到達可能な船の数と、その積載上限を答えなさい」
エレオノーラの問いに、男たちは戸惑いながらも具体的な数字を返し始めた。
大型船は増水した川へ入れず、小船は荒れた沖側の荷役場に近づけない。その間を結ぶ船が必要だった。さらに港務官が、組合側から渡された回答書を示した。追加の積み替えは、将来の優先枠と費用負担が確認されるまで引き受けないとある。
航行できない区間と、条件が合わず引き受けない作業。それらを分け、なお確認の取れない点には印を残した。エレオノーラは出所を記した配船表を港務官へ渡した。
「リュシア様。この配船表に基づき、港務局は小船を使った川筋での配送計画を組むことができます」
エレオノーラが表を提示すると、リュシアは少し落ち着きを取り戻し、深く頷いた。
「分かりました。ですが、彼らの行いを不問にはできません」
「ええ。ですから、一方的な断罪ではなく、公聴の手続きを踏むのです。ガルド組合長にも、公式な説明機会を与えなさい」
リュシアは、議長としての重責を噛みしめるように目を閉じた。
しかし、本日は第二十二日。夜には、国王レオナールが主催する盛大な祝宴が予定されている。本来ならば、新正妃として夫の隣で微笑み、各国の使節を歓待しなければならない日だ。
「……イネス。典礼局へ伝達を。わたくしは今夜の国王陛下の祝宴を欠席し、港湾被災者の緊急聴聞を優先します」
「よろしいのですか? 陛下は、間違いなくお怒りになります」
イネスが青ざめて尋ねたが、リュシアの意志は揺らがなかった。
「王妃としての体面を保つために、民を見捨てることの方が、わたくしにとっては恥です」
数時間後、祝宴の準備が進む大広間から王の使いが来た。
使者は、「王妃として恥を知れ。今すぐ着替えて大広間へ参れ」と厳命した。しかし、リュシアはそれに従わず、黙々と港務官たちとの緊急協議を続けた。
既決の宮廷行事費からの支出であっても、港の危機を知る者がこの祝宴をどう見るか。エレオノーラは、泥のついた外套から目を逸らせなかった。リュシアは使者に頭を下げ、それでも実務の席を離れなかった。
協議の終わりに、外交局から公開の確認書が回ってきた。アドリアンの署名がある。
ベルク港に停泊する公用穀物船「白鴎号」は、沖側の荷役場から河口集積所までの運航が可能だという。既存訓令による貸与を検討するため、港務局へ積荷と運航計画の提示を求めていた。翌日の協議に備え、外交局は関係者を招集している。王妃府にも、現地で調達できる食材の見積もりが届き始めていた。
エレオノーラは配船表の写しを担当官へ渡した。自分への個人的な便宜ではなく、現場からの必要に応じた協議が進んでいた。
夕刻。
王都での聴聞を終えた港務局支所の代表と小船主の代表が、早馬で再びベルク港へと帰っていく時刻となった。
雨脚は王都でも次第に強まっており、南西の空は分厚い鉛色の雲に覆われている。
馬にまたがった港務局支所の代表は、見送りに来たエレオノーラたちに向かって、泥にまみれた顔で暗く言い残した。
「……配船計画は持ち帰ります。今朝届いた追報では、水位はあと一尺で限界だと。今夜もつかどうか……」
男たちは、鞭を入れて雨の中へと駆け去っていった。
第二十二日の夜。王宮の大広間では、豪奢な音楽と共に国王の祝宴が華やかに幕を開けていた。しかし、ベルク港の堤防が持ちこたえているのかどうか、王都ではまだ確かめられなかった。




