第14話【わたくしが休んでも、仕事は進む】
教導室の机の上には、エレオノーラの知らない筆跡で分類札が立っていた。
第二十日の休務が明けた、第二十一日の朝。教導室の扉を開けたエレオノーラは、高く積み上げられた報告書の山と、その前で顔を青白くして奮闘する補佐官イネスの姿を見た。
ベルク港周辺の浸水被害に関する急報は、昨日一日でさらに数を増していた。明日に迫った国王の祝宴(第二十二日)の準備に関する書類も入り混じり、机の上は混沌としている。
エレオノーラは、丸一日休んでしまった罪悪感と焦りから、急ぎ足で自分の席に向かった。
「イネス、すぐに代わります。私が休んだ間の原票をすべてこちらへ」
手を伸ばしかけたエレオノーラに対し、イネスはびくっと肩を揺らしながらも、書類の束をぎゅっと抱え込んだ。
「だ、駄目です! エレオノーラ様はまだお顔の色が優れません。私がやりますから……!」
「しかし、あなた一人では処理しきれない量です。誤配があれば命に関わります」
「そう、ですが……」
イネスが泣き出しそうな顔で言い淀んだ時、教導室に典礼局長のセシルが入ってきた。
彼はうずたかく積まれた書類の山を見て、重い溜息を吐いた。
「これでは明日の祝宴の使節対応にも支障が出る。……かつてのエレオノーラ殿が正妃であった頃なら、このような書類、一晩で綺麗に処理されていたのだがな」
口にした直後、セシルは言葉を止めた。増員を起案した本人にも、古い頼り方が染みついている。かつてのエレオノーラなら、三日徹夜してでも全てを完璧にこなしていただろう。彼ら王宮の官吏は、その異常な自己犠牲を『有能さ』と呼び、当然のように甘えてきたのだ。
エレオノーラは伸ばしかけた手を止め、静かに下ろした。
一晩で済ませる。その結果が、第十九日の夜に契約を破って無断残業をし、引継ぎのないまま休み、当番に作業の手順から調べさせたという、無様な失敗だった。
自分の過ちを他人の前で認めるのは、有能さを自負してきた彼女にとってひどく恥ずかしいことだった。だが、ここで再び仕事を取り上げれば、同じことの繰り返しになる。
「セシル様」
エレオノーラは、第十九日の夜に自分が抱え込んだまま未処理となっていた原票と作業記録を、机の上に並べた。
「かつての正妃のやり方は、破綻していました。私が一晩で処理できたのは、手順も判断も自分の机に集めていたからです。昨日、当番の方々は私の原票を探すところから始めなければなりませんでした。休んだことではなく、引継ぎをせず抱え込んだことをお詫びします」
セシルが目を見開く。エレオノーラが、自身の能力の限界と失敗を公に認めたからだ。
彼女はセシルに向き直り、きっぱりと言った。
「セシル様、総指揮をお願いいたします。明日の祝宴の装花や飾り付けは、最低限の簡素なものに削ってください。浮いた人手を使節対応に回す配置を、局長からご承認いただけますか」
セシルは担当表を確認し、「その配置で進めよう。当番との引継ぎも私が確認する」と頷いた。
「……マリナ」
「は、はい!」
「あなたは公式日程の当番責任者です。祝宴に向かう外国使節団への対応と案内は、承認された日程に従い、あなたが窓口を取り仕切りなさい」
二十五歳の補佐官マリナ・ベルンが、緊張で身を強張らせながらも力強く頷いた。
そしてエレオノーラは、書類を抱えたまま固まっているイネスに向き直った。
「イネス。ベルク港からの災害連絡資料の分類と、各部署への取り次ぎは、引き続きあなたが担当しなさい」
「私、ですか……? でも、もし間違えてしまったら……」
「私はあなたの作成した一覧表の『誤配の最終点検』のみを行います。判断に迷った時は聞きなさい。ですが、私はもう、あなたのペンを奪って代行することはしません」
それは、部下に対する絶対的な信頼と、自分自身の傲慢さへの戒めだった。
『私がやらなければ』という思い上がりを捨て、組織として回る形を作らなければならない。
イネスはエレオノーラの灰青の瞳をじっと見つめ返し、やがて深く頷いて自分の机に向かった。
それからの数時間は、エレオノーラにとって忍耐の連続だった。
イネスが被害予測の数字を読み間違えそうになった時、マリナが使節の席次に迷って右往左往している時、すぐにでも自分が手を出して解決したくなる衝動に駆られた。
だが、彼女は決して手を出さず、ただ的確な助言だけを与え続けた。
やがて、イネスが最後の一枚の書類を分類し終え、港務局と財務長官宛ての連絡簿に印を押した。
「……発信簿、閉じました。全件、伝達完了です!」
イネスの声に、教導室にいた数人の事務官から安堵の吐息が漏れた。
エレオノーラはイネスの作成した一覧表に目を通し、誤配が一つもないことを確認すると、小さく微笑んだ。
「見事です、イネス」
「エレオノーラ様……っ」
イネスが涙ぐむのを見ながら、エレオノーラは自分の茶器に淹れたての温かい茶を注いだ。
『私が倒れたら皆が困る』のではない。『私がいなくても回る形にしなかった』ことが間違いだったのだ。
温かい茶を喉に流し込むと、休務で潰した一日の悔しさが、少しだけ浄化されていくような気がした。
午後。
教導室を出て、資料を届けるために公開の廊下を歩いていたエレオノーラは、前方から歩いてくるノルテ公国の特命外交官、アドリアン・フェルスとすれ違った。
彼は新しい窓口担当として紹介されたイネスとマリナにも一礼し、短く言った。
「任せたのは勇気のいる選択ですね、教導官殿」
エレオノーラは、過労で休んだ不手際を取り繕うことなく、彼に対して自然な笑みを返した。
「ええ。ですが、彼女たちは私の想像以上に優秀でした」
アドリアンは微かに口元を緩めた。礼を返そうとした右手が一瞬止まり、左手で手袋の指を引き直す。
「お手元が痛むのですか」
「冷えると、少し。古い傷です」
それ以上を尋ねずに頷くと、彼は照れたように手を下ろした。手袋の縫い目は、一か所だけ糸の色が違っていた。きちんとした身なりの中の小さな繕い目が、不思議と目に残った。
教導室に戻り、ようやく一息つけるかと思った矢先だった。
外交局の通信係が、血相を変えて教導室に飛び込んで来た。
「港務局からの緊急報告です! ベルク港にて、ラディア商人組合のガルド系列の大型船が、一斉に積荷の移送を拒否しているとのことです!」
「移送を拒否……?」
エレオノーラは渡された報告書を読み、顔を強張らせた。
決壊の危機が迫るベルク港周辺には、避難が必要な三つの村がある。その避難経路と物資の輸送には、港に停泊している大型船の協力が不可欠だった。
報告には、安全上の理由を挙げて追加の移送を断る船と、優先枠の確認を取引の条件にする業者の名が並んでいた。どこまでが航行上の問題で、どこからが交渉なのか、まだ切り分けられていない。
(これが、彼のやり方……)
ただの水害ではない。商人の利権が絡んだ、人為的な供給抑制の疑い。
このまま船が動かなければ、三つの村への救援経路は完全に絶たれる。
現場の指揮権を持たない教導室で、リュシアとエレオノーラは、この非情な現実の壁に直面していた。




