第13話【絹の袖では土嚢を積めない】
報告書に記された避難世帯数を、リュシアは二度、指で数え直した。
第十九日の朝。教導室は、前日までの外交文書が放り出され、泥と雨の匂いがするような切羽詰まった報告書で埋め尽くされていた。
南西のベルク港周辺で続く長雨は、ついに河川の警戒水位を超え、港務局の観測網が「三日以内の堤防決壊の恐れあり」との予測を王都に叩きつけてきたのだ。
リュシアは青ざめた顔で、港務局からの早馬の束を握りしめていた。
「避難は、間に合っているのでしょうか。この報告は昨日のものです。わたくしからも、今すぐ船を出すよう伝えた方が……!」
彼女は新正妃としての威を借り、自ら現場へ直接命令を下そうと立ち上がった。
だが、エレオノーラは冷たく澄んだ声でそれを制止した。
「お待ちください、リュシア様。あなたには、港の現場指揮権はありません」
「ですが、人が死ぬかもしれないのですよ!」
「ええ。だからこそ、指揮系統を混乱させてはならないのです。王都から命令を出すのと、現場の官吏が天候を見て判断するのでは、情報に二十四時間のラグがあります。絹の袖を着た王都の人間が、現場の土嚢の積み方に口出しをすれば、現場は混乱し、結果として救える命を落とします」
エレオノーラは、リュシアの手から報告書をそっと抜き取った。
「避難誘導は始まったとあります。現地から届く不足の訴えを、王都のどの部署が引き受けるのか。私たちは、そこで止まらないようにいたしましょう」
リュシアは唇を噛みしめ、力なく椅子に座り直した。
そこへ、典礼局長セシルが足早に入室してきた。彼の手には、二枚の公文書が握られている。
「エレオノーラ殿。国王陛下は、三日後、第二十二日に予定されている王の祝宴を、予定通り強行されるおつもりだ」
教導室の空気が凍りついた。地方で堤防決壊の危機が迫っているというのに、王は、融資関係者も招く席を取りやめれば、資金繰りへの不安を広げると主張しているという。それでも、現場への連絡に必要な人員まで祝宴へ回すことは、エレオノーラには受け入れ難かった。
「……正気ですか。典礼局の人員が祝宴に取られれば、誰が各所から集まる災害情報の整理と伝達を行うのです」
「そこで、だ」
セシルは一枚の公文書を机に置いた。
「典礼局長権限により、第十九日付で第二十四日までの限定追加指令を発行した。財務長官の既存予算内の確認も取ってある。教導官エレオノーラ殿に、『災害連絡資料の分類・取り次ぎ』の業務を命ずる」
それは、教導契約の範囲外であった『実務』を、緊急事案として合法的に教導室に割り当てるための正式な手続きだった。
エレオノーラは小さく息を吐き、公文書を受け取った。
「承知いたしました。私はあくまで現場への命令は代行せず、各所から届く被害予測、避難世帯数、救援先の一覧を作成し、正規部署へ回す裏方に徹します」
直ちに追加業務が始まった。
教導室には、港務局、地方領主、商人たちからの急報が次々と運び込まれる。エレオノーラはそれらを瞬時に読み解き、必要な情報だけを抽出して一覧表に書き込んでいく。
その最中、外交局を経由して一通の公開文書が回覧されてきた。
ノルテ公国の特命外交官、アドリアン・フェルスからの公式な連絡だった。そこには、彼の祖国の公用穀物船「白鴎号」一隻が、既にベルク港の沖側荷役場に停泊中である旨が記されていた。
エレオノーラは文書を見つめた。
もしここで、彼女が個人的に「その船で物資を運んでほしい」と彼に頼めば、彼は動いてくれるかもしれない。だが、それは他国の公用財産を、正規の手続きを経ずに私情で動かすという重大な越権行為だ。
エレオノーラは文書に『確認済』の印を押し、港務局と外交局の救援窓口へ回した。必要なら、そこから正式に貸与を協議できる。彼に個人的な頼み事はしないが、使える船の情報まで机に留める理由はなかった。
勤務の終わりが近づいても、急報の波は止まらなかった。
教導官の正規の勤務時間は一日六時間。それを過ぎた頃、補佐官のイネスとマリナが疲労の色を濃くし始めた。
「イネス、マリナ。あなたたちは下がりなさい。リュシア様も、今日はここまでに」
「ですが、エレオノーラ様。まだ未分類の資料が山のように……」
「緊急の連絡は当番へ回しました。残りの照合は私が整理しておきます。下がりなさい」
エレオノーラは冷徹な声で部下たちを帰した。
だが、全員が去った後の教導室で、彼女は帰り支度をせず、再び机に向かった。
……自分なら、もっと速く、正確にできる。明日まで待てば、その間に情報が遅れる。
部下へ説明する間にも、どこかの村の数字が抜け落ちるかもしれない。そう思うと、手を離せなかった。自分なら速いという自負に、任せて失敗することへの恐れが重なっていた。
エレオノーラは、ランプの灯りだけを頼りに、一人で内密に資料整理を続けた。
避難世帯の計算。物資の配分予測。
その中で彼女は、港務局から送られてきた一部の住民名簿に致命的な欠落があることを発見し、夜中のうちに問い合わせの書状を書いた。
ペンを握る手が震え始める。頭痛が視界を歪ませる。それでも彼女は、徹夜で机に向かい続けた。
翌日、第二十日の明け方。
朝一番で教導室に入ってきたイネスは、机に突っ伏すようにして書類を書き続けているエレオノーラを見て、悲鳴のような声を上げた。
「エレオノーラ様! まさか、一晩中ここにいらっしゃったのですか!?」
「……イネス。ちょうどよかった。この名簿の欠落を港務局へ……」
「駄目です!」
イネスは、エレオノーラの手から強引にペンを奪い取った。
その目には、怒りと悲しみの涙が浮かんでいた。
「契約の範囲を守れと、わたくしたちに仰った方が、なぜご自分だけ破るのですか! あなたが倒れたら、この教導室はどうなるのですか!」
「ですが、私がやらなければ……」
「本日、第二十日はあなたの有給休務日です。契約通り、お休みください。……局長に連絡します。どうか、今日は私たちに任せてください!」
普段は大人しいイネスの痛烈な叫びに、エレオノーラは言葉を失った。
自分が限界を超えて働けば、結果的に誰かが助かると思っていた。だが、それは『自分がいなければ回らない職場』を温存するだけの、危ういやり方でもあったのだ。
エレオノーラはふらつく足で立ち上がり、イネスに深く頭を下げて教導室を後にした。
結局、住民名簿の欠落は早期に発見されたため、港務局が自力で補完を開始できたという成果は出た。しかし、エレオノーラの過労は美談にはならなかった。
休務日である第二十日を、エレオノーラは自室のベッドで泥のように眠って潰した。体力の回復には丸一日を要した。
そして第二十一日の朝。
彼女が教導室へ戻るまでの間、王の祝宴準備に人手を割かれた王宮で、未分類の急報の山がどれほど高く積み上がっているか。
自分以外の誰にも仕事を引き継げる形にしていなかったという己の過ちを、エレオノーラは思い知ることになる。




