第12話【王の署名には、王の責任がある】
国王は『民の安全のため』と称し、借款手続きを先行させるとの書簡を配った。
第十七日の休務が明けた第十八日の朝。教導室に届けられた王宮報の付録として、国王レオナール名義の公式な書簡が回覧されていた。
そこには、正式な三国協議が暫定合意の段階で止まっていることへの苛立ちと、「目前に迫る冬を越すため、条約の批准を待たず、復興と港湾整備のための借款手続きを直ちに開始する」という宣言が華々しく記されている。
その書簡を読んだ新正妃リュシアの顔に、微かな安堵の色が浮かんだ。
「……陛下が手続きを急いでくださるのなら、すぐにでも冬を越すための資金が手配されるのですね」
リュシアは、手元で小さく息を吐いた。
彼女は先日、故郷の復興基金の送金を握る商人ガルドから、十年独占条約が結ばれなければ支援を縮小すると脅されていた。港の整備と交易が動き出せば、故郷の船にも仕事が戻る。そうして基金以外の収入を作れれば、ガルドの脅しに屈せずに済むのではないか。
リュシアが王の「速度」に期待を寄せるのは、故郷の切実な現金不足を案じているからこそだった。
だが、エレオノーラはその書簡を冷ややかに見下ろした。
「リュシア様。この書簡から、手続き上の不自然な点を読み取ることができますか」
「不自然な点……ですか?」
「はい。現在、ガルド組合長を幹事候補とする融資団と国王陛下との間にあるのは、未署名の『仮合意』のみです。そして、条約自体も未批准。それなのに、陛下はどうやって巨額の借款を引き出すおつもりなのでしょう」
エレオノーラの問いに、リュシアは答えに詰まった。
借款には返済の見込みと、必要な承認が要る。担保があれば何でも省けるわけではない。港の運営権が確定していない以上、それを取得済みの権利として約束することもできない。
「王の署名には、王の責任が伴います。借款の相談を急ぐことはできます。ですが、この書簡だけでは、どの担保をどの承認によって用意するのか分かりません。資金が届くと、まだ約束はできないのです」
「ですが、陛下は『民の安全のため』と仰っています! 一月もすれば、北の山も海邦の海も大雪や嵐で閉ざされてしまう。今すぐ現金がなければ、故郷の民は凍え、飢えてしまうのです!」
リュシアは、机に手をついて立ち上がった。琥珀色の瞳には、切羽詰まった恐怖と焦燥が渦巻いていた。彼女の脳裏には、先の嵐で屋根を失い、震えている故郷の民の姿があるのだろう。
エレオノーラは表情を変えず、ただ真っ直ぐに彼女を見返した。
「緊急だからといって、裏付けを確かめずに約束を当てにすることはできません。焦って不確かな資金の約束に乗れば、後でより大きな代償を国が支払うことになります。王妃たるもの、感情で決裁権の限界を越えてはなりません」
「……エレオノーラ様」
リュシアの声が、怒りで震えた。
「あなたは、常に規則と書類のことしか仰らない。現場で、屋根もなく腹を空かせて待つ人たちの顔を知らないから、そんな冷たい言葉を盾にできるのです」
その言葉は、鋭い棘となってエレオノーラの胸に突き刺さった。
『正しければ、人は待てる』。
そう言い返そうとして、エレオノーラは息を呑み、言葉を飲み込んだ。
リュシアの指摘は正しかった。小船主の訴えを聞き、輸送費も確かめた。それで十分に現場を知った気になってはいなかったか。資金が遅れたら、誰が何日待てるのか。その問いに答えないまま、危険だけを説いていた。
エレオノーラは手元の資料を見た。正しい手続きの説明はあっても、今日を凌ぐ方法はまだ書かれていなかった。
「……申し訳ありません」
数十秒の沈黙の後、エレオノーラは静かに頭を下げた。
だが、それはリュシアの感情論に屈したわけではない。
「今の資料だけで、待てるとは言えませんでした。港務局に届いている生活物資の在庫と、不足の報告を確認します。ラディアへの照会も、いつ返答を見込めるか確かめましょう。正規の支援が届くまでに、何が足りなくなるのかを知るところから始めます」
リュシアは唇を噛みしめ、それ以上は何も言わずに席に座り直した。
二人は和解しなかった。教導官と新正妃の間には、冷たく深い溝が横たわったまま、その日の教導の時間は過ぎていった。
午後。
外交局から回覧されてきた公式照会の写しを整理しながら、エレオノーラはその中の一通に目を留めた。
ノルテ公国の特命外交官、アドリアン・フェルスからの公式な質問書だった。
そこには、三国の暫定協議がまとまったことへの謝意と共に、『北方の冬道が封鎖される時期が迫っている。早急な物流枠組みの法的確定を求める』という、強い焦りが滲む文言が記されていた。
冷静沈着な彼もまた、自国の北部住民の命綱となる冬期輸送の確保に向けて、時間との戦いを強いられているのだ。
個人的な手紙ではない。公式な外交文書という形でしか言葉を交わせない相手。
エレオノーラは、その几帳面な署名を見つめながら、自身の内にある焦燥感を彼に重ね合わせた。王の不穏な動きを止められない無力感と、リュシアの切実な怒りに触れた痛み。
彼もまた、遠く離れた王都から、雪に閉ざされようとしている故国の民を思い、見えない時間と戦っているのだろうか。
「……わたくしも、急がなければ」
エレオノーラは小さく呟き、港務局への資料請求の書面を整え始めた。
その時だった。
教導室の扉が叩かれ、イネスが血相を変えて飛び込んできた。
「エレオノーラ様! リュシア殿下!」
「どうしました、イネス。そんなに慌てて」
「港務局から、早馬による急報が届きました!」
イネスの手には、封を切られたばかりの伝令書が握られていた。
彼女の震える声が、王宮の分厚い壁を越えて、冷酷な現実を教導室に叩きつけた。
「ベルク港周辺で長雨が続き、河口の水位が警戒水位に達しているとのことです! 港に隣接する三つの村に、避難の可能性が……!」
リュシアが息を呑み、椅子から立ち上がる。
冬を待つまでもなく、水魔が現実の脅威として民に襲いかかろうとしていた。
ここから先は、書類上の条約交渉ではない。どれだけ早く、正確な情報を回し、的確な資金を現場に届けるかという、実務の戦いが始まろうとしていた。




