↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/58

彼女の時間

世界が、先に震えた。

時間が震え、意味が後から追いつく。

あるいは――意味だけが、遅れて与えられる。


未来と過去は、触れれば同じ温度だった。

だから柳端が来るという事実も、未来ではなく、

すでに世界のどこかに、痕跡として存在していた。


分離の瞬間、彼女はまだ幼かった。

空が裂け、音が消え、大人たちが言葉を失った日。


気づいたとき、街は同じ姿のまま、ただ――人だけが減っていた。

消えたのは、姿だけではない。

声の記憶。

名前の響き。

呼びかけられる感覚。


名前を呼ばれなくなった。

学校も、約束も、日常も、少しずつ意味を失っていった。


選ばれたからではない。

守られたわけでもない。


彼女は、境界の近くで育った。

境界は場所ではなく、彼女の鼓動に合わせて伸縮していた。

そこでは、未来が先に来る日もある。

昨日の出来事を、明日になって思い出すこともある。

音が遅れ、影が二重になる場所。


それでも彼女は、その存在を感じ取っていた。

顔も知らない。

声も知らない。

それでも彼女は、ときどき思った。

誰かが、こちらへ向かっているのではないかと。


年月が経つ。

彼女は歳を重ねた。

ある日、鏡の中の自分が知らない年齢をしている。

だが翌日には、元に戻っている。


ある日は一気に進み、ある日は何も変わらない。

鏡に映る自分が、昨日とは違う表情をしていることもあった。

それでも彼女は、待つのをやめなかった。

あるいは――すでに待っている状態から、抜け出せなかった。


春を何度見ただろう。

数えようとして、やめた。

この世界では、数えるという行為に意味がない。

同じ春が二度訪れることもある。

一年が数日で終わることもある。

それでも彼女は覚えている。

待っていた時間だけは、決して消えなかった。


境界が薄くなると、柳端の世界の音が混じる。

遠くの車の走行音。

知らない言語の断片。

そして――ある日。

待っていた時間だけが、先に名前を知った。

名前が聞こえた。

柳端。

それまで知らなかったはずの名前だった。

なのに、その響きだけは昔から知っていた気がした。

観測ではなく、侵入に近い何かだった。


向こう側から、確かにこちらを見ている。

誰かがいるという証明。

彼女は、声を上げて泣いた。

その理由を、自分で説明することはできなかった。


待ち続けた歳月が、初めて報われたのか、それとも崩れ始めたのか、彼女には分からなかった。


そして、今日。

世界が、音を取り戻した。

空の継ぎ目が、音を立てて裂ける。

止まっていた世界が、呼吸を思い出す。


風が鳴り、街が軋み、時間が、ほんの一瞬だけ前へ進んだ。

彼女は、自然と笑っていた。

――来た。

層が、音を立てて揃う。


重なり続けていた時間が、一瞬だけ、一直線になる。

その瞬間だけ、どちらの世界も“選ばれていなかった”。

境界の向こう側に、柳端が立っている。

境界の向こうに立つ姿を見て、彼女は少しだけ笑った。

自分の方が歳を重ねている。

その事実が、なぜだかおかしかった。

待っていたのはこちらなのに。

置いていかれたのも、こちらだったのに。

それでも、確かに柳端だった。


「……やっと、来た」

確信に形を与えるための、確認の言葉だった。

柳端が一歩を踏み出した瞬間、彼女の時間が揺れた。

止まっていた秒針が、ぎこちなく、しかし確かに動き出す。

それは喜びであり、同時に恐怖だった。


境界が、悲鳴を上げた。

それでも彼女は、手を伸ばした。

触れれば、どちらかが失われる。

彼女は知っている。

だから彼女は、柳端の名を呼んだ。

名前を呼ぶことは、存在を確定させる。

そして同時に、他の可能性を切り捨てる。


その音が、救いになるのか、破綻の始まりなのか、彼女にも、まだ分からなかった。

それは再会の合図であり、世界を動かす、取り返しのつかない最初の音だった。


彼女の指先が、柳端に触れた。

触れたはずの感触が、どちらのものか分からなかった。

音が、消えた。


世界は、どちらも選ばなかった。

あるいは――最初から、選ぶという構造が存在していなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。