彼女側の世界
こちら側の世界では、時間は急がない。
急ぐ必要が、最初から存在しない。
朝が来る。 夜が来る。 季節は巡る。
けれど、その巡り方だけが少しおかしい。
昨日と今日の境目が曖昧だった。
この世界では、時間は流れているというより、重なっている。
彼女の記憶には、まだ訪れていない出来事の影と、ずっと前に終わった感情が、同じ温度で残っていた。
目に映る景色も、ときどき二重になる。
昨日の光が、今日の光に混ざる。
夕暮れの色が、朝の空に残っていることもあった。
最初は、自分だけがおかしいのだと思っていた。
だが、そうではなかった。
ある頃から、周囲が先へ進み始めた。
友人だった少女が、いつの間にか背を追い越した。
久しぶりに会った同級生は、大人びた声で話していた。
鏡の中の自分だけが、昨日の続きに取り残されているようだった。
その「昨日」が、いつのものなのかは分からない。
祖父母は多くを語らなかった。
ただ、境界の近くへ行くたびに言った。
「待つことを、怖がらなくていい」
幼い頃は意味が分からなかった。
今も、全部は分からない。
それでも、その言葉だけは消えなかった。
世界は狭い。
けれど、狭いからこそ分かることもある。
この世界には、どこか欠けている場所がある。
最初から、そこに在るはずだった何か。
証拠はない。
だが、確信だけがあった。
――誰かがいる。
向こう側に。
顔は知らない。
名前も知らない。
それでも、その存在だけは知っていた。
探してくる側の誰か。
あるいは、もうずっと前からこちらを見ていた誰か。
境界の近くに立つと、胸がざわつく。
空気が重くなる。
見えない膜が、指先を押し返す。
けれど同時に、どこかへ引かれている気もした。
押しているのか。
引いているのか。
それさえ分からない。
ただ、その向こうに誰かがいる。
その感覚だけが、年を重ねるごとに強くなっていった。
声を聞いたこともある。
名前を呼ばれた気がした夜もあった。
振り返れば誰もいない。
けれど、その響きだけは胸に残る。
それが自分自身の声だったのか。
向こう側の誰かだったのか。
彼女には分からなかった。
だから、待った。
無理に触れれば、壊れてしまう気がした。
祖父母は理由を説明しなかった。
それでも、彼女は従った。
ただ、生き続けた。
待ちながら。
観測されなくても、存在は消えない。
そのことを、自分自身に証明するように。
ある日。
境界が揺れた。
空の継ぎ目が裂ける。
世界が軋む。
空気が鳴る。
初めて、この世界が抵抗した。
彼女は顔を上げた。
――来た。
そう思った。
風が止まる。
重なっていた層が、一瞬だけ揃う。
彼女は名を呼んだ。
その瞬間だけ。
世界は、ひとつだった。
時間も。
距離も。
境界さえも。
柳端が選ばないと決めた日。
彼女は待つと決めた。
その決意が、いつ重なったのかは分からない。
ただ、同じ場所を見ていた。
それだけは確かだった。
そして今も。
その決意だけが、境界を支えている。
誰のものなのか、もう区別はつかないまま。




