柳端の罪
――思い出したくなかった。
あの頃、まだ世界は静かだった。
観測塔の窓から見える都市は、光の粒子のように整然と並んでいた。
「なあ柳端」
隣の席から声がする。
振り向かなくても分かる。
彼だ。
同期の観測補助者。
理想を本気で信じていた男。
――だから、最後まで疑わなかった。
「観測ってさ、救済になり得ると思わないか?」
「数字だけ見てると、 人間が見えなくなるぞ」
彼は笑った。
「ちゃんと見ろよ」
柳端は端末から目を離さず答えた。
「救済じゃない。調整だ」
「同じだろ」
「違う」
彼は笑った。
「滅びる世界を、安定側に寄せる。それが俺たちの仕事だろ?」
「……違う」
柳端は一瞬だけ言葉を止めた。
だが否定はしなかった。
異常が発生したのは、その三日後だった。
確率帯域に揺らぎ。
微弱だが、広がり方が不自然だった。
「これ……局所崩壊型だ」
彼が先に気付いた。
柳端は計算を走らせる。
分岐増殖。
臨界点到達予測――十八時間。
管理局上層に報告が上がる。
返答は迅速だった。
「剪定候補に指定。観測強度を上げろ」
「候補ってことは、まだ確定じゃない」
柳端は何も言わない。
計算は続いていた。
指数はすべて基準を下回っていた。
だが。
「人はいる」
彼が言った。
「そこにいる人間の確率は?」
柳端は答えられなかった。
臨界二時間前。
管理局は最終判断を求めた。
「担当観測者の承認を確認する」
端末に表示された確認欄。
承認者:柳端。
彼は横で立ち尽くしていた。
「なあ」
声が震えていた。
「まだ可能性あるよな?」
柳端は画面を見つめる。
可能性は、ある。
だがそれは、他の安定世界の揺らぎを誘発する。
「お前が観測してるなら、俺は大丈夫だろ?」
彼は笑った。
本当に安心したように。
子供みたいに。
柳端は返事をしなかった。
返事をしなかったことを、 後になって何度も思い出すことになる。
嘘でもよかった。
分からないと言えばよかった。
やめろと叫べばよかった。
だが柳端は、 何も言わなかった。
その言葉は、冗談のつもりだったのか。
本気だったのか。
柳端には分からない。
ただ、彼は信じていた。
観測は守る行為だと。
彼は、画面の向こうにいる“人”を、最後まで見なかった。
柳端は、承認を押した。
指先の感触だけが、異様に鮮明だった。
消失は静かだった。
光が走ることもなく、爆発もなく、ただ、データが薄くなっていく。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「柳端?」
声が遠のく。
「お前、見てるよな?」
観測強度は最大だった。
柳端は、見ていた。
だからこそ、確定した。
存在は収束し、ゼロへ向かった。
それでも視線は逸らさなかった。
最後に彼が言った。
「ちゃんと、見ろよ」
ノイズに混じって、消えた。
その言葉だけが、剪定されなかった。
あるいは――剪定できなかった。
世界は安定し、彼だけが消えた。
「的確な判断であった」
柳端は何も返さなかった。
観測塔の窓に映る自分の顔が、わずかに歪んでいた。
あの日から、彼は“選ばない”ようになった。
自分は守ったのではない。
救ったのでもない。
ただ、天秤の片側を落とした。
それだけだ。
今、世界統合が始まろうとしている。
再び、選択を迫られている。
だが柳端は知っている。
選択は救済ではない。
あの日、自分は神の真似をした。
そして、何も理解していなかった。
そして一人を消した。
だから――もう選ばない。
もう、世界の命運を自分の承認欄で決めはしない。
裂けた空の下で、柳端は瞬きをした。
境界の向こうで揺れる彼女の輪郭が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
あのとき、自分は“見ていなかった”。
数字だけを見ていた。
今は違う。
目を逸らさないことだけは、選べる。
目の前にいるのは、
あの日、消したはずの問いだった。
「……ちゃんと、見る」
数字ではなく。
記録ではなく。
人として。
今度は、消える前ではなく、生きているうちに。
境界の向こうで、 彼女の輪郭が静かに結ばれていく。
柳端は目を逸らさなかった。
あの日、 逸らしてしまった分まで。
初めて。
観測者としてではなく。
一人の人間として。




