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接触の代償

彼が「触れないことで守ってきた現実」が、崩れようとしていた。

――それは、本当に守られていたのか。


触れた瞬間、世界はどちらを現実として確定させるか選べず、ためらった。


音も風も、決定の直前で止まった。

舗道の影は輪郭だけを残して揺らぎ、世界が「どこまで許すか」を測っているようだった。


柳端の指先が、彼女の手に触れる。

触れた実感は、一瞬遅れて胸の奥に届いた。

境界は、破れなかった。

代わりに、重なった。


二つの世界は、完全に混ざることを拒みながら、しかし引き離されることも拒否する。

中途半端な接触。

柳端は、説明のつかない既視感を覚えた。


触れたのに、すぐには伝わらない。

彼女の体温は、低いのではなかった。

遅いのだ。

触れてから、届くまでに時間がかかる。


視界が二重になる。

柳端の世界の街並みと、彼女の世界の街並みが、半透明のまま重なり合う。

信号機が二つ点灯し、空の色が微妙にずれる。

世界が、どちらを現実とするか迷っている。


《観測値、未確定》

《現実座標、重複検出》

《優先世界の選択不能》

数値は揺れ、確定処理は保留されたまま進まない。


それは、管理局にとって初めての「判断不能」だった。

そのとき、彼の端末が震えた。

圏外のはずだった。

それでも通知は、強引に割り込んでくる。


《位相干渉、臨界値超過》

《第三位相、活性化確認》

――見つかった。

管理局が、ここを“観測した”。


柳端の脳裏に、一つの記録がよぎった。

保管庫の奥で見つけた、廃棄予定端末。

読むべきではないと分かっていた。

それでも目を逸らせなかった。

あの記録だけは、妙に胸に残っていた。


――内部事故記録(非公開)

対象者:管理局観測技術官

識別番号:K-071

所属:位相観測第三課

発生日時:記録欠損

発生地点:境界近接観測区画

事象概要:

定期観測中、対象者は第三位相の自発的変動を検知。

対象者は独断で観測を継続。

その直後、位相干渉が急激に拡大。

公式処理記録:

作業中の事故。

単独行動による判断ミス。

非公式補足(抹消対象):

第三位相は外部要因ではない。

境界の内側から、応答した。

対象者はそれを「待っている側の時間」と記録している。

対象者は最終記録において、安定化処理の中断を要求。

理由:「まだ、向こう側に人がいる」要求は却下。

処理は継続。

結果:対象者、境界内に取り残される形で消失。

肉体的死亡は確認されず。

存在座標のみ観測不能領域へ移行。

備考:第三位相の痕跡は、事故後も断続的に検出。

同一パターンの再発可能性、高。

――記録、ここまで。


柳端は、それが何の記録なのか、最初は理解していなかった。

管理局の保管庫で見つけた。

廃棄予定の端末だった。

読むべきではないと、理性は告げていた。

だが、視線は画面から離れなかった。

理解できないはずの記録が、なぜか自分に向けられている気がして。

だが、画面に残された最後の一文を読んだ瞬間、柳端の指が止まった。

「まだ、向こう側に人がいる」

その言葉を、自分がどこかで聞いたことがある気がして。


同時刻、本部中枢のスクリーンが、一斉に暗転した。

スクリーンに映し出される数値は、過去最大の振れ幅を示している。

「原因は?」

問いが飛び、誰も即答できない。


二つの世界が、自発的に接触している。

「安定化処理を即時実行」

だが処理系は応答しなかった。


境界のこちら側にいる者だけが、「守られる」。

その指示を聞いた瞬間、柳端は理解した。

処理とは、切断だ。


境界を厚くし、干渉点を消す。

つまり――彼女を隔離する。

「行かないで」

それは、引き止める言葉ではなかった。

世界を失ってもいいと告げる声だった。


その声を聞いた瞬間、柳端の中で何かが切り替わった。

計算も、損得も、正しさも、すべて後ろへ退いた。


切断処理が実行されれば、彼女は消える。

それでも世界は続く。

だが――それを正しいとは思えなかった。


柳端は、彼女の手を強く握り返した。

あの日の承認欄とは違う。

今度は、消すためではない。

逃げるためではない。

残るためでもない。

選ぶために。


世界より先に、彼女から目を逸らさなかった。


彼女の声は、かすれていた。

泣いてはいない。

ただ、時間の揺れだけが、感情の代わりにそこにあった。

彼女は知っている。

次に引き離されれば、今度こそ戻れないかもしれないことを。


その瞬間、境界が悲鳴を上げた。

音が歪み、光が裂け、時間が跳ねる。

消失区域の奥で、何かが、明確な“形”を取り始める。

第三位相。

それは、切断されなかった時間の残り方だった。

選ばれなかった時間が、消えずに残るための名前。


失敗でもない。

管理局の設計図には存在しない、誰かが「残る」ことを選んだ結果としての位相。

それは現象ではなかった。

誰かが、残ることをやめなかった痕跡だった。


柳端と彼女は、知らず知らずのうちに、世界に問いを突きつけていた。

このまま、二つに分かれて静かに生き続けるか。

それとも――

すべてを賭けて、再び一つになるか。

答えは、もう引き返せない場所で、確かに芽生え始めていた。


境界が、初めて“拒絶”ではなく“選択”として裂けた。


二つだった時間が、重なった。

それが救いなのか、破滅なのかは分からない。

だが柳端は、もう目を逸らさなかった。


世界ではなく、

彼女を見ていた。

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