表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/20

観測対象になる日(前編)

翌朝、何も起きていないはずだった。

音を立てる必要がないほど、すでに包囲されている。

管理局は、そういうやり方をする。


柳端がそれに気づいたのは、業務開始から三十分ほど経ってからだった。

端末の表示が、わずかに簡略化されている。

閲覧可能ログの数が減っている。


参照先が、一段階浅い階層に限定されていた。

――権限が、落ちている。

画面の階層が一段浅くなった瞬間、

自分の影だけが、机に近づいた。

立っている位置は変わらない。

だが、世界のほうが、柳端を一段下に配置した。


公式通知はない。

周囲の様子は変わらない。

同僚はいつも通り席に着き、淡々と作業を進めている。


偶然だ。

そう考えようとした瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。

その視線の逸らし方が、妙に揃っていた。


ひとりだけ、視線を逸らしきれなかった若い局員がいた。

目が合いかけ、慌てて端末に視線を落とす。

その手が、わずかに震えている。

柳端は知っている。

だが、知らないふりを選んだ。

事前に、何かが通達されている。


柳端は、静かに立ち上がった。

給湯室へ向かうだけの動線。

だがその途中で、壁面モニターの一つが、柳端の通過に反応して表示を切り替えた。


《要観測ログ:更新》

《対象:柳端》

《隔離評価:未実施》

《干渉危険度:算出中》

一瞬だけ映り、すぐに消える。

表示は消えた。

だが“消されきらなかった何か”だけが、視界に残った。


――今のは。

偶然ではない。

通過したから切り替わったのではなく、“通過すること”を待っていた。

いや、通過したという事実を、すでに知っていた。

柳端が、そこを通る可能性ごと、記録されていた。

立ち止まりかけて、思い直す。

振り返らない。


給湯室には誰もいなかった。

機械音だけが、規則正しく響いている。

紙コップの水面が、わずかに揺れている。


波紋は広がらない。

中心だけが、何かに触れられたように震える。

それは、水ではなく、時間の反応だった。

振動はない。

空調も動いていない。

それでも揺れる。

柳端が近づいた瞬間だけ、揺れ幅が増した。

そして、揺れは柳端が離れた後も止まらなかった。

中心だけが、わずかに遅れて収束する。


柳端は、目を細めた。

これは、直近の消失区域関連報告で確認されていた「局所時間遅延滲出」と同種の現象だ。

観測対象の周囲でのみ発生する、極小誤差。


その瞬間、背後の廊下で足音が止まった。

誰かが立ち止まり、様子をうかがう気配。

監視は装置だけではない。

人もまた、観測装置だ。

端末が震えた。

通知音は鳴らない。

だが画面の隅に、小さな赤点が灯る。

《要観測対象:暫定指定》


表示された番号が、自分自身を指していると理解するまで、わずかな時間が必要だった。

対象番号の欄に、彼自身の識別コードが表示されている。

はっきりと、だ。

誤表示ではない。解除を前提としない指定だ。


柳端は、ゆっくりと目を閉じた。

――彼女の世界が、こちらに触れ始めている。

それを最初に“見てしまった”自分は、もはや管理する側ではいられない。


境界に立つ者は、必ずどちらかに分類される。

管理する側か、管理される側か。

静かな線引きだ。


世界はまだ断絶していない。

だが、その準備は、すでに始まっていた。

そして沈黙を拒んだ者は、例外なく「観測対象」になる。


その対象番号は、もう一度だけ点滅した。

《観測開始》

《状態遷移:不可逆》

《記録保存:恒久》

《観測者権限:停止》


柳端は、無意識に瞬きをした。

次の瞬間、 自分の右手が、 ほんの一瞬だけ見えなくなった。

消えたのではない。

遅れた。

視線だけが先に到達し、 存在が追いついてくる。

指先が、 世界から半拍だけ外れている。

柳端は反射的に手を握る。

感覚はある。

だが、 自分の身体に触れている感触だけが、 わずかに遠い。

――始まっている。


彼女のいる側へ。


もう戻れない距離が、確定する。

観測者だった時間が、過去になる。


柳端は今、記録する側ではなく、記録される側に立っている。


柳端は給湯室を出た。

廊下を歩く。

誰も声をかけない。

誰も近づかない。

だが、 全員が知っていた。

柳端だけが、 もう管理局の人間ではないことを。

自席へ戻る途中、 壁面ガラスに自分の姿が映る。

そこで初めて気づく。

影が、一つ多い。

柳端は立ち止まった。

振り返る。

誰もいない。

もう一度ガラスを見る。

影は、 まだそこにいた。

そして、 柳端より半歩だけ先を歩いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ