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観測対象になる日(後編)

管理局の地上区画は、いつも通り稼働していた。


だが柳端には、すべてが微かに遅れて感じられた。

遅れているのは世界ではない。自分のほうだ。

歩くたび、足裏がわずかに遅れる。

同僚の足音は半拍遅れ、扉の音は視界のあとから追いかけてくる。

空間と身体の基準が、噛み合っていない。


――時間誤差。


この場所で、何かが噛み合っていない。

端末を操作しながら、柳端は意識的に呼吸を整えた。

だが今回は違う。

揺れているのは――自分だけだ。

世界は正常で、自分だけが誤差になっている。


背後から、視線を感じた。

振り返ると、数人の職員がこちらを見ていた。

露骨ではない。

だが、視線が交わると、誰もがわずかに目を逸らす。

共有されている。


――要観測。

それだけで十分だった。

線は警告として引かれない。

踏み越えたあとで、いつの間にか足元に現れる。

午前中の定例会議で、決定打が落ちた。

議題は消失区域。


今朝、市内北東区画で微小消失が確認された。

消えたのは、公園のベンチの一部。

誰も座っていなかった。

だが、消失半径は前回より拡大している。


境界の安定度と、再発傾向の確認。

柳端は事実だけを述べた。

数値、時系列、過去ログとの一致。

だが、発言が終わる前に、上席が遮った。


「そこから先は推測だ」

声は穏やかだった。

だが、その一言で線が引かれた。


事実と、解釈。

胸の奥に小さな痛みが走る。

まるで、身体の一部が残されたまま置き去りにされたようだった。


柳端の言葉は、後者として処理された。

議事録には、発言そのものが存在しなかった。

発言していない者として、処理されていた。

処理されたのは発言だけではない。

発言した「立場」そのものだった。


会議後、個別に呼び止められる。

小会議室。

記録に残らない、簡易面談。

「最近、自己参照が増えている」

「対象との同調傾向が見られる。業務から一時的に外れてもらう可能性がある」

それは配慮ではなく、段階だった。

そう言われた瞬間、理解した。


――もう始まっている。

始まりは、音を立てない。

気づいたときには、もう戻れない。

正式な通達はない。

だが、端末の挙動が変わった。


ログの遅延。

一部データへのアクセス制限。

問い合わせに対する、わずかな間。


周囲の音も、匂いも、色彩も、自分だけが遅れて認識しているような感覚。


昼休み、柳端は一人で窓際に立った。

ガラスに映る自分の動きが、一瞬だけ遅れて重なる。

映像の中の自分が、わずかに瞬きをした。

こちらより、半拍遅れて。視線が合う。


ガラスの中の自分は、微かに笑った。

先に決まった結果を、なぞるように。

こちらは、笑っていない。

口角が上がる前に、笑みが完成していた。

その遅延が、半拍から一拍へ伸びた。

その笑みは、どこか懐かしかった。

それは、まだ選ばなかった頃の自分の顔だった。

だがその目は、こちらを評価していた。

観察する側の目だった。

どちらが本物か、一瞬わからなくなる。

あるいは、どちらも既に「本物ではない」。


柳端は目を閉じた。

再び開く。

ガラスの中の自分は、 まだこちらを見ていた。

半拍遅れているはずなのに、 視線だけは先に届いている。

柳端は、ゆっくりと窓から離れた。

だが最後まで、 ガラスの中の自分だけは動かなかった。

踏み入れたのではない。

いつの間にか、立ち位置が書き換えられていた。


その日の帰路、街の灯りが妙に鮮明だった。

一つひとつが、必要以上に輪郭を主張している。

柳端は歩調を落とした。

だが――

胸の奥で、確かに何かが動いていた。


消失区域。境界の向こう。観測信号。

それらが、一本の線で結ばれつつある。

この日を境に、彼の立場は静かに変わった。

公式記録には、何も残らない。

だが世界は、確かに彼を観測対象として認識し始めていた。


そしてその夜、

柳端の端末に、存在しないはずの観測ログが届いた。


《消失中心座標:柳端現在位置》

中心は場所ではない。

人間に置き換わっている。

《観測強度:増加中》

《境界接触反応:同期確認》

《対向側干渉源:未確定》

《安定化処理候補:第一位》

《優先度:即時判定待機》

柳端は画面を見つめた。

座標欄が、もう一行増える。

《対向座標:照合中》

数秒後。

文字列が表示される。

《一致率:99.8%》

《観測対象:2》

柳端の背筋に冷たいものが走った。


画面には、 もう一つの位置情報が表示されている。

だが、 それは地図上のどこにも存在しない。

それでも確かに、 柳端の座標と重なっていた。


端末の画面が暗転する直前。

座標の横に、 一瞬だけ文字が浮かんだ。

《待機終了》

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