春の実り
グラニエールの地に春が来た。
(バーレイ領の冬よりも寒いわ)
そう思ってから、一年前も同じことを考えた自分に可笑しくなった。
前年にこの地で実った麦グ01号を、今年はハンスの畑の隅に蒔いた。
麦がどんなに寒そうでも、藁は敷かない。バーレイの血がいくら騒いでも、麦踏みもしないつもりだ。
南由来の麦を、土地に適した方法で育てる。
それが、冬の間にハンスと決めた方針だった。
北では発芽に時間がかかるというのは、昨年知ったことだ。
けれど今年は時期が来ても、一向に緑の筋は見えなかった。
「やっぱり藁のお布団を…」「いや、ダメダメ。決めたとおりにしなくちゃ」
畑のまわりでは、日々つぶやきながら藁を持ってウロつくベアトリスの姿があった。
ハンスの麦畑ではたくさん芽が出たが、グ01号のほうには土が盛り上がる気配もない。
発芽を想定した日から一ヶ月が経ったころ、ハンスが沈痛な顔で「無理かもしれない」と言った。
「土の温度も上がりました。きっと種はもう──」
腐ってしまったのだろうか。南から来て、北の地で芽吹き実った大切なグ01号たちが。
ベアトリスの目から落ちたしずくが、畑の土に黒く染みる。
ハンスは、何も言わずにそっと立ち去った。
「……腐ると、どうなっちゃうんだろう」
種や根が腐るとはよく聞くが、実際はどうなるのかとふと思った。せめて最後まで見届けたい。ベアトリスはしゃがみこんだ。
木の枝で地面をガリガリとかく。それから手を使った。土は体温よりはうんと冷たくて、指先の感覚がなくなってきたころ、麦が出てきた。
それは、以前と同じように見えた。
色も変わらず、ぐしゃぐしゃでもない。大切に播いたときのままの姿だった。
「グ号、まだ頑張れそうじゃない」
ベアトリスはぐいと頬をぬぐった。土の匂いが顔についたが、大したことではない。
麦と土を戻して、ハンスの手伝いに向かった。
それからベアトリスは、ハンスの畑の世話をしている。彼の畑には麦だけではなく、芋やキャベツや豆などもあった。
川から引かれた水路には澄んだ水が流れていて、ベアトリスはセドリックから聞いた話を思い出した。
グラニエール家が鉱山を失い坑道が閉鎖されたことで、川の水質が徐々に良くなったのはなんとも皮肉な話だと、彼は寂しげに語っていた。
沈黙したままのグ号をよそに、ハンスの麦は収穫を目前に控えている。
そんな折、セドリックからの呼び出しを受け、ベアトリスは伯爵邸を訪れた。彼は前置きもなく、固い口調で問いかけた。
「例の生育実証は失敗したようだが、君は今後どうしていくつもりだ」
「失敗ではありません。麦の発芽を待ちつつハンスさんの手伝いをして、北の農業を学んでいます」
ベアトリスの答えを聞くと、セドリックは大きなため息をついて頭を振った。
「春に播いた麦の発芽を待つと? 無理だろう。今年の収穫が終わったら、君は南部へ帰れ」
「まだ種は生きています。ここで学ぶこともまだまだあります」
間を置かずに答えるベアトリスに、セドリックは眉をしかめて目を閉じる。
そして、眉間を揉みながらしばらく考え、きっぱりと告げた。
「君は他人だ。これ以上ここで無為に過ごさせるわけにはいかない」
他人。その言葉に、ベアトリスはショックを受け──なかった。
「じゃあ、他人じゃなくなればいいじゃないですか」
「ん?」
「私と、結婚しましょう」
セドリックの目は、こぼれ落ちそうなほどに見開かれている。
「他人じゃなければ、領にいていいと言いましたよね」
「言っていない」
「ありふれた政略結婚ですよ。私はここで麦を育てられて、セドリックさんは美味しい麦を食べられる。誰も損をしません」
セドリックはますます眉間を揉んでいる。
「……それでは君の人生はどうなる」
「私は美味しい麦を食べてもらえたらそれでいいんです」
「本当に? それだけのために好きでもない男と結婚をすると?」
「そうです。好きでもな……え?」
今度は、ベアトリスが止まる番だった。
止まったままのベアトリスに、色々なことが押し寄せる。
何年経っても彼の言葉を忘れられなかったこと。
何度も笑顔に見とれ、不整脈が治らないこと。
断る隙を与えず二度も押しかけたこと。
『彼に』美味しい麦を食べてもらいたいこと。
ああ、その理由は、きっと──
「もしかして、好きだと言うのか?」
「……私だって、今気づきましたよ!」
やけくそ気味に返事をしてしまった。こんなだから自分は。そう思っても、言葉が止まらない。
「そうだとしたらどうするんですか! き、気持ち悪いから帰れって言うんですか! でも帰りませんからね! マーサさんの家に住み着きます!」
めちゃくちゃな言い分を、セドリックは楽しそうに聞いていた。
嫌なやつだと思いかけたが、それでも嫌いになれない自分にまた顔が熱くなる。
ベアトリスの言葉が途切れると、彼が喉の奥で笑う声が聞こえた。
「ずっと疑問で、引け目もあった。君がそこまでしてくれることに。でも、理由があって安心した」
セドリックは一歩だけ近づく。
たったの一歩。それでも、彼と離れてからの七年間で、きっといちばん近い距離にいる。
「ぜひ、結婚してくれ」
ベアトリスが顔を上げると、セドリックと目が合った。
「え」
涙目の間抜けな声が出てしまい、ついでに素朴な疑問をぶつける。
「でも私ですよ?いくら領のためといっても、セドリックさんはこんなのと結婚していいんですか?」
ずっと支離滅裂なベアトリスに、セドリックは心底愉快そうに笑った。
「こんなに想われて、好きにならないわけがないだろう」
◇◇
結婚式の当日、何度も自分の頬をつねった。
赤くなってしまったが、ベールがあるから構わないだろう。
──と思っていると、隣に来た彼がベールの隙間を覗いて、赤らんだ部分をスッと撫でた。
ベール越しでもわかるほど真っ赤になった花嫁にみなが笑って、ベアトリスも笑った。
笑い声に満ちた北の春。
畑の隅では、麦の芽が顔を出していた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
よろしければご感想や評価などをいただけますと嬉しいです。




