北の暮らし
ベアトリスはビクビクしながら、とある石造りの民家を訪れた。苔むして古びてはいるが、修繕が行き届いて毅然とした佇まいの家だ。
「ごめんくださーい……」
「はい。開いておりますよ」
声かけと同時に現れたのは、かくしゃくとした細身の老婆だった。
彼女は、六年前にベアトリスの教育係を務めた人物の妹である。
「遠いところよくぞお越しで。このとおり何もないところですが、どうぞゆっくりしていってくださいな」
姉妹の見た目は似ているが、性格はずいぶんと違うようだ。ベアトリスは心の底からほっとした。これからこの地でやることを考えると、パンを抜かれてはたまらない。
「マーサさん、お世話になります。私、ここで麦を育てたいんですが、北部ではいつ種を蒔くんですか?」
「おや、麦を育てるので? ここでは春先に蒔きますよ」
マーサの夫のビルは昔は鉱山の管理人だったが、今はグラニエール伯爵邸で修繕などをしているらしい。マーサは庭で自分たちが食べる分の野菜を作って暮らしているそうだ。
「麦を作るのでしたら、うちの余っている場所をお使いなさいな」
ベアトリスは自分の幸運を喜んだ。
しかし、浮かれていられたのはその日だけだった。
翌日、さっそくマーサの家の庭にクワを振り下ろしたベアトリスは、思わずクワを取り落とした。痺れて動かない手を眺めていると、マーサが様子を見に来てくれた。
彼女から固い土の起こし方を教わる。細く尖った農具を使ったり、表面を剥がしたりと、これまではやったことのない方法ばかりだ。
南部の土は柔らかいのだなと、痺れた手をさすりながらぼんやりと考えていた。
ここでは霜が下りる前に畑を起こす。この時を逃すと土が凍り、春蒔きには間に合わなくなるという。
「私、何も知らなかったのね」
それなら、これから知っていけばいい。しんみりする必要などないのだと、ベアトリスは再び作業に戻った。
やがてベアトリスの頑張りと、ビルの手助けもあって、気温が下がりきる前にはどうにか土を起こせたのだった。
グラニエールで過ごす初めての冬は、想像など生易しいと思えるほどに厳しいものだった。
土が凍る、ということを初めて目の当たりにした。雪が降らない日のほうが寒いなど、これまで誰からも聞いたことがなかった。日が差すことはほとんどなく、どんよりとした空が気分を沈ませる。
「すっっぱ! マーサさん、このキャベツ、酢が入ってないって本当ですか?」
「あら、ご令嬢がそんなお顔をしてはいけませんよ。ほら、こっちの煮込みならどうです?」
ベアトリスは冬の間、マーサからたくさんのことを教わった。
北の麦の育て方、ここで育つ野菜の種類、それから、保存食の作り方と食べ方。
「ベアトリスさんのところの保存食はそのままでも美味しいわねえ。麦の味が良いのね」
マーサの言葉にセドリックの声が重なる。
『君の領の麦は、美味いな』
来年には、ベアトリスがここで作った麦を褒めてもらえるだろうか。
まだ蒔いてもいない麦の出来を思い、胸を躍らせた。
やがて雪が解け土が顔を出して、待ち望んだ春が来た。
ベアトリスは、意気高らかに種を蒔いた。
春といっても南部の冬よりもまだ寒い。藁を丁寧に敷き詰めた。これは大事な大事な麦の布団だ。
けれど、芽は半分ほどしか出なかった。
「……たったの、これだけ?」
ぽつぽつと並ぶ芽を見下ろしながら呟く。バーレイ領のベアトリスの畑では、蒔いた麦はほとんどが芽を出していたのに。やはり寒さが問題なのだろう。
南部に作った『北部の畑』は、しょせん南部だったのだと思い知る。
貴重な芽は大切に育てた。風よけを立てて、麦に毎日声をかけた。
結局収穫できた麦は、芽吹いた分のさらに半分以下だった。
◇
「セドリックさん。これ……グ01号です」
実りがどんなに少なくても、やはり彼には報告しておくべきだろう。
ベアトリスはおずおずと小袋を差し出す。
「すごいな、こんなに収穫できたのか」
セドリックは何の含みもなさそうに感嘆の声を上げた。
「たったこれだけ、ではないんですか?」
「君の奮闘はビルから聞いている。正直言って、君のやり方で実がなるとは思っていなかった」
「知ってたなら、間違ってるって教えてくれればよかったじゃないですか……」
自分の居所も知られていないと思っていたのに、セドリックはこちらの状況を知っていたらしい。思わず不満の声を漏らしたベアトリスに、彼は目を据わらせた。
「私が話をしたら、君はすぐに思い直したか?」
ベアトリスは身を縮ませる。言われたことに思い当たる節がありすぎた。
セドリックはその様子を見て、仕方がなさそうに笑った。
「麦農家のハンスを紹介する。君のやり方とここでの農法をすり合わせるといい」
北で過ごす二度目の冬。ベアトリスはグラニエール邸に通い、北部の麦作りについて基本から教わった。
「ええっ。こっちでは麦踏みしないんですか?」
「ここらは元々締まった土質ですからね。踏みすぎると根が腐るんですよ」
「でも、マーサさんの畑では麦踏みをしても大丈夫でしたよ」
「君の麦はなんとも逞しいな」
ごくたまに、執務の合間を縫ってセドリックも話に加わった。彼は仕事のことは何も話さなかったが、最近はビルとよく出かけているようだった。
ある日、北部にミミズはいるのかいないのかとハンスと口論になったせいで、帰りが遅くなった。
いつも連れ立って帰るビルはもう帰ってしまい、セドリックが送ってくれるという。
馬車に乗り込む直前、彼がふと空を見上げた。
ベアトリスもいつかのように彼の視線を追う。
「ゎ……わあ!!」
見上げた先には、光のカーテンがあった。
緑とも青ともつかない光が暗闇を漂い、どんなに目を凝らしてもたちまち形を変えていく。一瞬たりともとどまらない光の動きを、ベアトリスは食い入るように見つめた。
どれくらい時間が経っただろうか。
隣からかすかに吹き出すような声が聞こえた。
「君は、驚きすぎると話さなくなるんだな」
くつくつと笑いながらセドリックがこちらを見ていた。
「次こそは」
その笑顔に見とれながら、ベアトリスの口が勝手に動く。
「美味しい麦ができるでしょうか」
「君ならやってのけそうだな」
空の光はすぐに消えてしまったが、暗いとは思わなかった。




