7 寝床が変われば目覚めも変わる
「ハクちゃん。ハクちゃん、起きて」
肩を揺すられて、目を開けた。
すぐ上で、布の幌が揺れている。
そうだった。馬車に乗っていたんだ。
「もうすぐ街に着くよ!」
フィルの声だ。眠る前に言っていた通り、起こしてくれたらしい。
身体を起こすと、膝の毛布がずり落ちそうになった。押さえてから、幌の後ろへ目を向ける。
外は、すっかり暗くなっていた。
「……夜?」
「うん。ハクちゃん、ずっと寝てたからね」
乗った時は、まだ日が出ていた。途中で一度も目を覚まさなかったようだ。
それでも、身体はまだ重い。少し眠ったくらいでは、どうにもならない疲れ方だった。
向かいでは、フェンが幌の柱にもたれて外を眺めていた。乗った途端に寝ていたのに、いつの間にか起きていたらしい。
「よく眠れましたか?」
フェンが、こちらを向いて聞いてきた。
「……うん。でも、まだ眠い」
「着いたら、また眠れますよ」
それは、とても大事なことだと思う。
幌の後ろから、顔を覗かせる。
暗い草地の向こうに、明かりが並んでいた。その奥に、夜空を背にした大きな壁が、横へ長く続いている。
「見えてきたな。あれがミルヴァだ」
ローザが、私の視線の先を見て言った。
「……ミルヴァ」
「街の名前だ。この辺りじゃ、かなり大きい方だぞ」
近づくにつれて、壁の形がはっきりしてきた。灰色の石を積み上げた、高い壁だ。真ん中に大きな門があって、その両側に槍を持った人が立っている。
街というより、お城の入り口みたいだ。
「……壁、高いね」
「森が近いからな。魔物が出てきた時に備えて、この辺りの街はどこもああなっている」
あの森の魔物が相手なら、これくらいは要るのだろう。
門の前で、馬車が速度を落とした。
御者の人が、門番と何か話している。門番の一人が荷台を覗き込み、ローザたちの顔を見ると、軽く頭を下げた。
馬車は、そのまま門を抜けた。
道には、平たい石が敷き詰められていた。両側には、下が石で上が木の家が並んでいる。二階建てや三階建ての家もあって、窓から明かりが漏れていた。
夜なのに、通りにはまだ人がいる。荷物を抱えて歩く人や、話しながら帰っていく人。
森では、十日いても誰にも会わなかった。ここでは、少し外を見ているだけで何人も通り過ぎていく。
なんだか、妙な気分だ。
角を曲がると、道の端に屋台が出ていた。店じまいの途中らしく、木の箱を片づけている。通り過ぎる時、何かを焼いた香ばしい匂いがした。
思わず、そちらを見る。
「お腹空いた?」
隣から、フィルが聞いてきた。
「……ちょっと」
本当は、ちょっとではない。今日食べたのは、森でもらったパン一つと、酸っぱい実が何粒かだけだ。
「だよね。ギルドに着いたら、ご飯も出してもらえると思うよ」
それは、ありがたい。
屋台は、そのまま後ろへ遠ざかっていった。……残念。
しばらく進んで、馬車が止まった。
周りの家より一回り大きい、石造りの建物の前だ。入り口の上に大きな看板が掛かっていて、中から人の声が聞こえてくる。
ローザが先に降りて、フィルが私に手を差し出した。荷台は、今の私には少し高い。手を借りて、地面に降りる。
……揺れない。
当たり前のことに、少し感動してしまった。
「ここが冒険者ギルドです。中へどうぞ」
アリメルに続いて、扉をくぐる。
中は広かった。木の机と長椅子がいくつも並び、何人かが飲み物を片手に話している。奥には腰の高さほどの長い台があって、その向こうに職員らしい人たちが立っていた。
ゲームで見たギルドに、だいぶ近い。本当にあるんだな、と思う。
「サブマスター、お帰りなさい」
台の向こうの女の人が、こちらに気づいて声を上げた。
……サブマスター?
思わず、アリメルを見る。本人は気にした様子もなく、台の方へ歩いていった。
「ただいま戻りました。少し、予定が変わりまして」
アリメルが私を示して、森で保護したことを手短に話す。女の人は私を見て目を丸くしたけれど、すぐに頷いて奥へ入っていった。
戻ってきたアリメルに、聞いてみる。
「……アリメルって、偉い人だったの?」
「偉いかどうかは分かりませんが。ここのギルドで、サブマスターを務めています」
ギルドで二番目に偉い人、ということだろうか。兵士への報告を任されていたのも、それなら分かる。
「森でお話しする暇がなくて、すみません」
「……ううん」
「今日はもう、ゆっくり休んでください。お話は明日にしましょう。寝てからにしてほしいと、森でおっしゃっていましたから」
言ってみるものだ。
「それから、お部屋と食事は、当面こちらで用意します。費用のことは、今は気にしなくて大丈夫ですよ」
……費用。
言われて、気がついた。私は、お金を持っていない。持ち物といえば、着ている服と靴だけだ。
「……いいの?」
「ええ。森で保護した方ですから。これからのことは、明日、ギルドマスターも交えて相談しましょう」
「……分かった。ありがとう。助かる」
いつまでこうしてもらえるのかは、少し気になる。でも、それも明日の相談で分かるのだろう。今は、お言葉に甘えることにした。
「では、私たちは今日はここで引き上げる。明日の朝、また来る」
ローザが言った。
「ハクちゃん、おやすみ! ちゃんと寝るんだよ!」
言われなくても、寝る。
「……おやすみ。今日は、ありがとう」
「ああ。ゆっくり休め」
「おやすみなさい、ハクさん」
フェンも、軽く頭を下げた。
扉の方へ歩きながら、フィルがフェンの袖を引いた。
「ねえフェン、何食べる?」
「温かいものがいいです」
「今度は答えてくれるんだ!」
三人の声は、扉の向こうへ遠ざかっていった。
少しして、奥から別の女の人がやって来た。腕に、畳んだ布を何枚か抱えている。
「ハクさん。お風呂の用意ができました。こちらへどうぞ」
お風呂。
森にいた時、沢で顔を洗いながら、お風呂に入りたいと呟いたことがある。まさか、今日入れるとは思っていなかった。
「……行く」
返事が、少し早くなった気がする。
案内されたのは、建物の一番奥だった。
「冒険者の方も使う浴場です。身体を洗ってから、湯船に入ってくださいね」
扉の向こうは石の床で、奥に大きな木の湯船があった。湯気が、ゆっくり上っている。
「替えのお洋服はこちらです。今のお洋服は、お預かりして洗っておきますね」
渡されたのは、生成り色のシャツと、膝下まであるズボン、それに下着だった。飾り気はないけれど、生地はしっかりしている。
「……ありがとう」
女の人が出ていって、一人になった。
ワンピースを脱ぐ。裾は、今日の泥でまだらになっていた。
手桶で湯をすくって、指先を入れる。少し熱い。水で薄めて肩から掛けると、温かさが背中を伝って流れていった。
「……ああ」
変な声が出た。
森では、冷たい沢の水で顔や手足を洗うのが精一杯だったのだ。
置いてあった石鹸で、腕や脚を洗う。髪を洗うと、泡がすぐに茶色くなった。
……思っていたより、汚れていたらしい。
何度か洗い直して、ようやく泡が白いままになった。
湯船の縁に手を掛けて、足からゆっくり沈む。
「……ふぅ」
肩まで浸かると、自然に息が漏れた。
しばらく、何も考えずに浸かっていた。
気づけば、指先がふやけている。のぼせる前に、上がることにした。
借りたシャツは、少し大きい。袖をひと折りして、ズボンの裾も整える。
浴場を出ると、さっきの女の人が待っていた。
「お加減はいかがでしたか?」
「……すごく、よかった」
「それはよかったです。お食事も用意できていますよ」
一階の広い部屋の、端の机に案内された。深い器に入った煮込みと、切り分けたパンが置いてある。肉と野菜の匂いがした。
「温かいうちに、どうぞ」
「……いただきます」
汁をすくって、口へ運ぶ。
……おいしい。
塩気のある温かい汁が、喉を通っていく。野菜は柔らかく煮えていて、噛む前に崩れた。
温かいご飯なんて、いつ以来だろう。
パンをちぎって、汁に浸す。硬いパンも、こうすると食べやすい。
気づけば、器が半分空になっていた。少し、急ぎすぎたかもしれない。誰も取らないのだから、残りはゆっくり食べよう。
「……ごちそうさま」
「お部屋へご案内しますね」
女の人について、階段を上がる。案内されたのは、二階の一番奥の部屋だった。
「こちらを使ってください。扉は内側から鍵を掛けられます。何かあれば、下の受付に声を掛けてくださいね」
「……ありがとう。おやすみなさい」
扉を閉めて、鍵を掛ける。
小さな机と椅子、それから寝台が一つ。それほど広い部屋ではない。
でも、目が行くのは寝台だけだった。
木の枠に、厚みのある敷物。白い布が掛けられていて、畳んだ毛布と枕が置いてある。
腰を下ろすと、敷物が少しだけ沈んで、身体を支えてくれた。柔らかすぎず、硬すぎない。
落ち葉とは、比べるまでもない。
そのまま横になる。背中に、石も木の根も当たらない。枕の上で頭を少しずらすと、角もあっさり収まった。
「……いい」
毛布を引き寄せて、身体に掛ける。
屋根がある。扉には鍵も掛かっている。今夜は雨が降っても濡れないし、枝の折れる音で起こされることもない。
明日は、いろいろ聞かれるのだろう。森で何をしていたのか。どうやって魔物を眠らせたのか。それから、これからのこと。
でも、それは明日でいいと言われている。
目を閉じると、眠気はすぐにやって来た。今夜は、それに逆らう理由が一つもない。
*
目が覚めて、最初に気づいたのは、背中が痛くないことだった。
木戸の隙間から、明るい光が差し込んでいる。もう朝らしい。
夜の間、一度も目を覚まさなかった。森では、一晩に何度も起こされていたのに。
身体を起こしてみる。昨日の重さは、だいぶ抜けていた。
「……ちゃんと、寝られた」
……さて。
私は、もう一度枕へ頭を戻した。
相談は明日と言われたけれど、朝一番とは言われていない。それなら、もう少し寝ても問題ないはずだ。
毛布を引き寄せたところで、扉が叩かれた。
「ハクさん、起きていますか?」
アリメルの声だ。
「……起きてる」
今から二度寝するところだった、とは言わないでおく。
「よかった。よく眠れましたか?」
「……すごく」
「それなら安心しました。朝食のあとで、ギルドマスターに会っていただきたいのですが、大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
「では、下でお待ちしていますね」
足音が遠ざかっていく。
毛布をめくって、寝台から降りた。少し、名残惜しい。
……戻ってきたら、また寝られるだろうか。
一階は、昨夜よりずっと賑やかだった。受付の台の前には冒険者が並び、机を囲んで話し込んでいる人たちもいる。
アリメルが、私に気づいて軽く手を振った。
「おはようございます、ハクさん」
「……おはよう」
朝食を済ませると、アリメルに連れられて二階へ上がった。私の部屋とは反対側の、階段のすぐそばの扉だ。
アリメルが扉を叩く。
「ギルドマスター。ハクさんをお連れしました」
「おう、入ってくれ」
中から、低い声が返ってきた。
部屋の真ん中に低い机があって、それを挟むように長椅子が二つ置いてある。片方には、ローザとフィルとフェンが並んで座っていた。フィルが、私を見つけて手を振る。
そして、机の奥の大きな椅子から、誰かが立ち上がった。
……大きい。
立ち上がっただけで、部屋の天井が低くなった気がした。肩幅は、扉の幅と同じくらいある。袖から出た腕は、私の脚より太い。頭には髪が一本もなく、窓からの光をつるりと跳ね返していた。
思わず、足が止まった。
森の十日で、大きなものを見ると距離を測る癖がついてしまったらしい。
「よく来たな」
低くて、よく響く声だった。
大きな人は私を見下ろして、何かに気づいたように眉を下げた。
「……そんなところで固まるな。取って食いやしねえよ」
そう言うと、さっさと椅子に座り直した。ついでに背中を丸めて、少しでも小さく見せようとしている。
……あまり、小さくはなっていない。
「ゴンザだ。ここのギルドマスターをやってる」
「……ハク」
「おう。話はアリメルから聞いてる。まあ座れ」
三人の向かいの長椅子に座ると、隣にアリメルが腰を下ろした。
机の上には、湯気の立つお茶と、平たいお皿が置いてあった。お皿には、小さな丸い焼き菓子が山になっている。表面がこんがりと茶色くて、甘い匂いがした。
「食え食え。遠慮はいらねえ」
一つ取って、かじってみる。
さくりと崩れて、口の中でほどけた。果物の甘さとは違う、ちゃんとしたお菓子の味だ。
「……甘い」
「これ、美味しい!」
向かいで、フィルが声を上げた。もう三つ目に手を伸ばしている。
「ねえゴンザさん、これどこの? 今度そのお店教えてくれない?」
その瞬間、ゴンザの顔がぱっと明るくなった。
「おう、気に入ったか! 俺のお気に入りの店のやつなんだよ!」
「えっ!?」
フィルが、焼き菓子を持ったまま固まった。
「……何に驚いたんだ」
「いや、だって……ゴンザさんが甘いもの好きなんて、思わなかったから」
「俺が並んで買ってきた。朝一番にな」
ゴンザは、なぜか誇らしげだ。
「並んだの!? ゴンザさんが!?」
「並ぶだろう。すぐ売り切れるんだぞ、あそこは」
「フィル。失礼だぞ」
ローザが、額に手を当てた。
「ギルドマスターが朝からお菓子屋さんに並んでいたら、普通は驚きます」
フェンが、お茶を飲みながら言う。
「驚くなよ。甘いもんが好きで何が悪い」
ゴンザは口を尖らせてから、フィルに向き直った。
「店の場所は、今度教えてやる」
「やった!」
私が二つ目に手を伸ばすと、ゴンザが満足そうに頷いた。自分の好きなものを人が食べているのが、嬉しいらしい。
この世界にも、ちゃんとお菓子屋さんがあるのだ。お金ができたら、行ってみてもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、ゴンザがカップを机に置いた。
「さて」
さっきまでの楽しそうな顔が、少しだけ引き締まる。
「菓子の話はこのくらいにして、そろそろ本題に入るか」
ローザが姿勢を正し、隣でアリメルも頷いた。フェンが、こちらを見る。
私は、手の中の焼き菓子を見下ろした。
……まだ、半分残っている。
ひとまずそれを口へ入れてから、ゴンザに顔を向けた。




